2022年6月18日土曜日

芋焼酎「天孫降臨」

 「天孫降臨」の神話を知らない人が居るのは仕方がないと思っている。しかし知っている人を見ると嬉しくなる。個人的な思いは「日本人なら」この神話の意味するところを少しでも良いから知って欲しいと思う。今朝も常務理事と人事センター長である高校校長の3人で「来年度の専任教職員の採用問題」について議論したところだ。常勤の教職員の中から正式に本学校法人の正式クルーメンバーを採用決定する手順の話だが、私は思う。この人達くらいは、自分が生きとし生ける者として本校で働き生活の基盤とすることを欲するのであれば最低限「天孫降臨の神話」くらいは知っておいて欲しい。親鸞聖人、法然上人の根本義を見学の精神とする仏教系の私立、キリストの教えを精神に置くミッション系の私立、いずれも学校経営者はそこで働く者の「建学の精神」への理解を望んでいる筈である。第一に生徒が学んでいる学校において物事を教えている教師が「この学校はどんな学校か私は知りません、関係ありません」では済まないだろう。浪速学院は神社神道の学校である。 


「天照大御神」はお孫さんの高天原の「瓊々杵命(ににぎのみこと)」に、今に皇室に伝わる「三種の神器」八咫の鏡(やたのかがみ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を高天原(たかまのはら)のようにすばらしい国にするため、「天降る」ように命じた。その場所は日向(現在の宮崎県)「高千穂の峰」と伝承されている。これが天孫降臨の話である。このように天孫降臨の話は我が国の紀元であり、皇室の御先祖が高天原から天降り、この国を豊かにそして平和に治められていく様子を今に語り伝えている。今上陛下は初代神武天皇から数えて126代目の徳仁天皇陛下であらせられる。瓊々杵命は3種の神器とともに天照大御神より、「高天原の稲」を授かり、豊葦原水穂国の人々の食物とするように命じられ、爾来私達の祖先は稲作の起源として語り継ぎ、稲が北は北海道から南は九州沖縄まで植えられ、「お米」が日本人にとっていかに大切で、神聖な食物であったのかを我々は理解できる。 


私は平成28年、新校舎建設時に中央館と東館の境界の上部高くにガラス絵で天孫降臨図を設置した。そして同時期に宮崎県高千穂にある「神楽酒造」さんを訪問し本校のプライベートブランドである「芋焼酎の天孫降臨」の長期購入を契約した。そして高千穂にある有名な高千穂神社の後藤宮司を訪ね、この焼酎を奉納し末永いご加護を祈願した。これが現在に繋がる「本校の天孫降臨焼酎」である。約10年経って来年は開校100年を迎えることもあり、パッケージのデザインを一新するように事務室に指示し現在H事務長補佐が進めているところだ。これは明年4月の創立100年の引き出物の一つとしてご参列の皆様にお配りするが、その後も本校の教職員、訪問者や学校関係者で感謝すべき人々、功労があった方々や是非にと思う方々にプレゼントする「本校のアイデンティの品物」として活用する。 

今朝ほど事務から創立100年のロゴマークの入った名刺を渡された。以前、ロゴを何処に入れるか問われ、即座にそれは上部でなければならないと言った。ロゴマークには天孫の4代後の初代神武天皇が東征のみぎり、道案内をして勝利に導いた「八咫烏」と皇室を象徴する「八葉」「草薙の剣」デザインされている。このような恐れ多いマークを木村智彦の名前の下に置くなどもってのほかである。






2022年6月16日木曜日

遂にNS館、建設工事着工!

遂に新校舎と言うか、別館と言うか、仮称「NS館」建設工事が着工される。昨日ゼネコンの「南海辰村建設(株)」さんの工事関係者と着工前の最終確認打ち合わせを行った。顔ぶれを見るだけでゼネコンさんの「やる気」が」見てとれた。頼もしいし、嬉しい限りだ。学校改革の中でこの住吉の本校地で私が最初に手掛けたのが「浪速武道館」建設であり、これを請け負ってくれたのが南辰(略称)さんだった。まさに本校のアイデンティティである「文武両立」のシンボルも言うべきこの建物から現在の空手道部、剣道部、弓道部そして茶道部、雅楽部、神楽部と輝かしい運動部や文化部が大きく成長してくれた。空手道部と弓道部はこの夏のインターハイに大阪代表として出場する今や全国区のクラブだ。「南海辰村建設さんが造ってくれた建物は本校に運と強さを呼び込む」。 


仮呼称は「NS館」としたが、この由来は、その当時NHKの大河ドラマ真田丸にちなんで「浪速(N)真田丸(S)」デッキと名付けたことに拠る。本丸とも言うべき「中央館」から将来構想の「浪速アリーナ建設」と「新中学棟建設」を結ぶ連絡通路の要衝の地に遂に「出城」を建設するのである。「外に打って出る」のである。更にNSの意味は東館、中央館に入っている浪速高校と明年引き続いて建設に入る「新中学校校舎棟」との接合部になり、当面は高校、中学が使う「共同使用校舎」となる。Nは中高一貫の中学から高校に進んだクラスの呼称であり、一方のSクラスは高校からの入学者の呼称の一つである。NSにはもう一つの意味があり、校地前の道路に面した「北辰門」の正面に当たり、教室は北南に面していることから考えたものである。何れこのNS館の後ろには「搭みたいな浪速アリーナ」が聳え立つ。中央館、浪速アリーナ、新中学校棟を結ぶ拠点であるNS館は来月から本格的工事が始まる。 


現在最終的な行政との調整が進んでおり、6月末には「試掘」など事前チェックを行い、7月トップには「工事範囲の仮囲い」が始まって7月中旬には「解体工事」が始まるだろう。そして「私への引き渡しは来年の3月第3週、すなわち3月18日(土)」となっている。何しろ2650名の生徒が学んでいる最中での工事だから「安全優先」「騒音対策」など徹底して行い、そのためには生徒の動線や工事関係者の資材搬入口、現場での資材置き場等々「小さな穴に針を通す」みたいな繊細な気配りが重要である。昨日のキックオフのミーティングでこの辺の所をしっかりとするようにお願いした。私は本日工事現場周辺を歩いて自ら動線を確認したのである。 




特に今回校地に隣接した遊休土地の場所を現場工事の方々の「詰所」として借用したいと要望され、良い仕事をして頂くために「二つ返事」で了解した。この土地は3年前に売りに出された旧病院の跡地であったが、学校の傍であり、私は「必死の形相」をして、買いに走った経緯がある。5階建てのシングルマンションの建設計画であったが、学院神社の真後ろにこのような建物が建つと景観も含めて了承し難く、デベロッパーの会社の社長さんに緊急アポを取り自らが動いた。幸いにも学校の前を何時も通って通勤されているお方で、学校が変わっていく様を見ていたこの社長さんは学校を高く評価頂いており、即座に土地だけを売却してくださった。本当に有難い事だった。将来的にはこの土地には5階建ての「校友会館と遠方入学者の寮」建設を考えており、今のところ空き地になっておりこれから数年「中学校新校舎」が完成するまでは役立つことになる。工事関係者にとってこの空き地が利用できるのだから本校も南海辰村建設さんも「運が良い」。この運というのは全て神様の「ご神慮」のお陰であり、運は一生ついて回るものだ。


 

2022年6月14日火曜日

千早赤阪村「多聞尚学館」、3年ぶりに再開し、南本村長表敬訪問

 調べてみると正規の「多聞尚学館での生徒校外学習」は前回が2020年8月3日の事であり、実に3年振りの多聞学習となった。このようにコロナは本校教育活動の目立たないところにも大きな影響を与えたと言える。仕方のないことであったが私は内心では「鬱積したもの」があって早く多聞尚学館の再開活用を望んでいた。そして遂に6月12日の日曜日に本格的な多聞学習が始まったのである。嬉しかった。仕掛けてくれたのは国語科の教諭で指導教諭でもあるT先生だ。教科指導力、人物識見共に素晴らしい本校が誇る教諭のお一人である。


今回のテーマは「思考力養成多聞セミナー」と銘打って引率教員3人で生徒は学年合同で86人という数の多さである。大阪で唯一の村である千早赤阪村について「SDGs」も視野に入れた「地方創生の課題」を現地で考えることにより、問題解決能力やプレゼンテーション能力を養うものである。これは大学の新入試制度に伴う「思考力」「判断力」に繋がる「主体的に取り組む」姿勢を養い、高校1年から3年までの協同性も重要視している。目玉は何と地元の方々を8人お越しいただきグループに分かれて様々なテーマで「人のお話を聞く」ことからスタートした。全く経験のない初めての取り組みであった。私は企画の素晴らしさに感動し高い評価を与えたいと思う。これこそ「ケーススタディ」である。教師から一方的に教えることだけが教育ではない。 


現在、生徒アンケートを纏めている最中であるが生徒にとっても「生の声」を聴くことは大きな刺激があったみたいでワークシートを用いたグループワークの効果を付き添った教諭も実感している。まだ宿泊合宿とはしていないが、今後は徐々に活動の幅を広げてあらゆる方法で生徒の「考える力」を育んで行って欲しいと思う。多聞尚学館は他校が有していない「本校の宝物」みたいな校外学習施設であり、私が着任して最初に建設した、いわば学校改革の最初の成果の一つである。夏休み期間中の企画も現在検討が進行中であり、大いに期待したいと思う。「宝の持ち腐れ」になってはいけない。活用してこそ施設は生きる。 


そのような背景もあって本日私は千早赤阪村の南本村長を表敬訪問して色々とお話を伺った。府内で唯一の村であり、名峰「金剛山」の山麓に抱かれた多聞尚学館とのご縁はその後「多聞茶寮」「多聞果樹園・農園」と拡がり、今後とも学校法人浪速学院は千早赤阪村の行政当局と地元の方々とはご縁を深めていきたいと思っている。大阪府から出向されているI副村長にもご挨拶が出来、私は何時でもこの施設をご利用くださいと申し出た。現在本校からは千早赤阪村の教育委員にD教頭先生が就任しており、人的繋がりも強固になって来ている。村長からはD教頭に対して高い評価のお言葉を頂き、鼻が高かった。今日は本校常務理事と筆頭理事のM理事にも同席して貰い、会談は大いに盛り上がったのである。




2022年6月13日月曜日

浪速100年アーカイブ⑭ 大正15年(昭和元年)当時の浪速中学校「学校経費」

 アーカイブ⑬にて旧制浪速中学の経営難について詳述した。神職の方々は酒一号、煙草一本を惜しんでまで折角自分たちが建てた学校を護ろうと努力された。そして「教育後援会」を組織して広く支援の輪を広げる努力もされた。学校経営とは「神々に神明奉仕する神職の方方」にとって初めての経験であり、創立から敗戦まで「大阪府の行政」に頼り切っていた神社界にとっては「右顧左眄」、何をどうして良いのか手探りの状況だったと想像できる。多額の公金で運営されている公立中学に対して私立中学は一個の会社を経営するようなもので、売り上げを上げ、コストを下げて利益を生むと言う概念から逃げることは出来ない。確かに教育という崇高な営為であるが「先立つものはお金」であることには昔も今の間違いの無い事実である。 

ところで本校の40年史には大変貴重なデータが残っている。「大正15年当時の学校経費」である。それによれば歳入歳出額が56197円で、歳入の内訳は大阪国学院からの補助が10000円(17.8%)、授業料44000円(78.3%)、検定料600円(1.1%)大阪府補助金1500円(2.7%)、繰越金97円とあった。授業料収入は生徒800人分で一人平均55円とあり、検定料は入学者数300名とおいて一人2円の計算であった。これらを観ても収入の80%程度が授業料であり、当時の授業料55円レベルはほぼ府立中学に対して同じレベルであると思う。

 


ちなみに歳出の部では教職員俸給が43260円であり歳出全体の77%となる。今日の学校経営での重要な判断数値となる「帰属収入に対する人件費比率」という見方でみると帰属収入は府の補助金を入れて55500円となり人件費比率は78%となる。この数値をどのように見るかであるが平成21年度当時の全国平均が65.6%、大阪府の平均が71.5%、であるから当時の教職員の給与は少なくとも安くはなかったと言える。大正15年の教職員の数が正確ではないかもしれないが卒業写真から数えてみると31名であった。これから人件費を割ってみると教職員一人当たり月額116円となり相当高い数値であったとも思えるが」不確かである。大正15年当時の旧制浪速中学校の授業料が年間55円,教職員の月給が116円と言っても現在価値では一体幾らぐらいになるのであろうか。 

この価値について日本銀行が記録している「企業物価指数」から推定してみると面白いかも知れない。しかしそれにしても大阪府からの補助金の1500円(2.7%)は少ないと感じる。現在における補助金比率は30%程度でありこれを見ても今日の私立学校の恵まれた環境が分かる。令和3年度の学校会計の決算書類「資金収支計算書」からすれば、生徒納付金収入が13億3600万円、検定料の相当する手数料収入が4500万円、補助金収入が11億0000万円だから創立時から100年経過した現在で比較すると全てが分かる。収入を上げることは生徒を増やすことであり、行政機関は「私学保護」の為に補助金も増やしてくれた。有難いと思わねばならない。この補助金は「良い教育」の為であり、良い教育を展開すると生徒も増えてくるというのは昔も今も変わらない構図なのである。



2022年6月11日土曜日

浪速100年アーカイブ⑬ 浪速中学校後援会と石切劔箭神社

 アーカイブ⑫に記したように、初代寶來正信理事長はこの後援会について40年史の中に「回想」としての一文を寄せられている。この40年史は私の手元に、1冊だけ残存している極めて貴重な歴史書であり、未来永劫大切に保存していく必要がある。寳來先生は「創立後の苦難時代」として当時の状況を次のように回想されている。少し長くなるが転記したい。

“本校設立者財団法人大阪国学院は当時の社会情勢を憂えて民族精神を基調とする国民教育の必要性を痛感し、一面甚だしい入学難時代であったのでその緩和と言う社会奉仕の一端にもと浪速中学校の設立を企画したのである。そこで資金は広く世の篤志家に仰ぐ方針で敷地は各所を物色の末、依羅村から寄付される依羅池(1町2反12歩)を埋め立て、差し当たりの工事費は財団の基金を一次流用して賄うこととし、設立認可を得るとともに仮校舎で発足、授業を開始するというように頓頓と運んだのであった。 

然しながら、その後は予定の資金は計画通りに集まらない。工事は進めねばならぬ。結局資金面に行き詰って抜き差しならぬ破目に追い込まれた。背に腹は変えられず無理な金策が続けられ、最後は神社の基本金までも借り入れたのであるが、その整理は永く理事者の頭痛の種となって残った。かくて昭和6年頃の本校は大きな負債を荷おうた上に在校生は少なく最も悲況の時代で一本の煙草、一杯の酒を節約して神職大会に建議案を出し後援会を造ったのもこの年であった。“とある。 

以上のようは経済的困窮から大阪府神社界は「浪速中学校後援会」を創設して広く支援の手を内外に求めたのである。昭和6年5月の事である。大正12年に学校が出来て9年後のことであるが、未だ経営は安定せず、苦しかったことが容易に分かる。後援会の初代会長は石切劔箭神社宮司の木積一雄氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の初代理事長)」と記録に残っている。我々、今の浪速に生きるものとしてはこのような時代の中で如何に多くの人々が本校存続のために辛酸をなめて努力されてきたのか忘れてはならない。石切劔箭神社と言えば私には忘れられない事がある。今から10年前、創立90周年の時に東大阪の石切神社に一人、脚を運び、初めてアポを頂き、全く存じ上げない宮司さんを訪問し、寄付金をお願いした時の事である。気持ちは「恐る恐る」と言うものであった。頼りは初代の浪速中学校後援会の初代会長の神社と言う僅かの縁を頼りに訪問した。 



素晴らしい応接間に通され待っていると宮司さんが現れ、「どうぞお使いください」とご挨拶する間もなく「300万円の小切手」が袱紗に包まれて出されたのである。私の話を聞く前に宮司さんは既に用意されていたのである。このような事も申された。「祖父からの遺言で浪速学院に対しての応援を惜しむなと、代々引き継がれ、この言葉は今も生きていますと。足らないようであれば申し出て下さい」とまで、ご丁寧な口調で申され、私は感動と感激で目頭が熱くなった。初代浪速教育後援会長の木積一雄氏のお陰で3代目の宮司時代になっても浪速学院の事を忘れていないのみならずさっと300万円を差し出すような神社は古今東西聞いたことなど無い、初めての経験であった。その後、この宮司さんは私のたっての依頼で現在本校の評議員にご就任頂いており、人物識見共に優れた素晴らしいお方で、我々にとって極めて重要な役員になっている。

 

2022年6月9日木曜日

浪速100年アーカイブ⑫ 初代理事長とその後の理事長

 初代理事長は「寶來正宣」先生である。後のアラウンドでも詳述するが、名実ともに創立時代から戦前戦後を眺めて来られた「大理事長」であった。実に昭和21年から昭和46年現役でお亡くなりになるまで理事長職を25年間も務められた。私が理事長に就任したのが平成18年の冬、令和4年の夏の今までで18年目だから寳來先生に遠く、並ぶにはまだ7年間も頑張らねばならない。果たして身体が持つかどうか?尚この寶來理事長のお孫さんが私の前任の理事長であった堀川(戎)神社宮司の寶來正彦氏であり、現在評議員を務めて頂いている福島天満宮宮司の寳來芙紗子宮司もお孫さんである。 


大正12年設立当時の国学院役員は以下の通りであった。(敬称略)

  院長:平賀周(大阪府内務部長)、副院長:児玉政介(大阪府地方課長)

  理事:武田充忠、松尾幾太郎、浅香千速、渡辺醇、長谷川熊次郎、奥野勝二

それから一挙に戦後になり寳來理事長の誕生となるが、その後を10年単位で理事長の変遷を纏めてみると以下のようになる:

昭和38年当時、即ち「浪速高校40年史」には以下の国学院体制であった。

  理事長:寶來正信、理事:校長平石芳太郎、園 克己、別所貫一、

  それに下のお名前が分からないのだが山畑、薮野、露野、宮脇とあった。

昭和38年当時の理事者の写真が残っている:

昭和48年当時、即ち「50年史」における理事体制は以下のようであった。

  理事長:園 克己、理事;校長浅田光男、高松忠清、長谷川義高、寺井種茂、          加藤知衛、田島 瞳、菅尾竜雄

昭和58年当時即ち「60年史」における理事体制

  理事長:足立信治、理事:寺井種茂、校長一ノ瀬博、加藤知衛、田島瞳、江端市松、岡市正、津江孝夫、玉田義美、丸岡隆二

平成5年当時即ち「70年史」における理事体制

  理事長:玉田義美、理事:岡市正、一ノ瀬博(校長)、加藤知衛、江端市松、友田譲、若宮房又、若宮春典、寺井種伯

平成15年当時即ち「80年史」における理事体制  

  理事長:寶來正彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、大戸道彦、加藤知衛、森山一正、平岡公仲、畦地道俊、津江明宏、岡市正規、村上晃美

平成23年当時「90年史」

  理事長:木村智彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、森山一正、岡市正規、藤江正謹、 小西靖弘

令和5年仮定として、現在編集中の「100年史」

  理事長:木村智彦、理事:宮木嗣弘、南坊城充興、飯田智文、藤江正謹、中東弘、伊藤進、渡邊紘一、梶谷大志

 戦後の話が続いたので話を原点に戻そう。学校が出来たのが大正12年で卒業生を初めて出したのが昭和3年であった。経営的にも苦労があったのだろうと思うが昭和6年5月になって「浪速中学校後援会」が組織されている。後援会組織があると言うのは当時としては珍しいと思い、その背景を探ってみた。初代会長は「石切神社宮司の木積一雄」氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の初代理事長)と記録に残っている。しかしこの組織は40年史の文章によれば「校運の発展とともに解消」したとある。この教育後援会については次回のアラウンドにて詳述したいと思う。

2022年6月7日火曜日

浪速100年アーカイブ⑪ 神社界と大阪府の関係は戦後、遂に終焉

 大阪府との密接な関係はすでにこのアーカイブにおいて何回も詳述した。相当大きな関与と支援があって本校は順調に歴史を刻み始めた。しかしどうも設置者たる大阪国学院の存在感が薄いようにこのブログを読まれた方は感じる筈である。確かにそのように感じられても不思議ではない。しかし実際は影に隠れて大阪国学院の神職の方々は「血の滲む様な努力」をされていたのである。ただ学校と言うのは今でもそうだがこの時代も「校務を運営する校長以下教職員が表舞台の主役の組織」であって、設立の母体組織は表立って出てこないのである。

 又「神社界の気風」みたいなものを理解しなければならない。特に「神職の気風」については私がこの学校に着任して以来感じているのだが、神社の宮司様は「目立とうとしない」「争いは好まない」「一歩後ろに控える」、しかし一方では「義理人情には人一倍敏感で果たす」気風が強い。神職は神様への取り持ち役であり、主役ではないことを心得ておられる。従って噂話にもご自分の名前が出て来るのにも敏感である。神社神道の世界は日本の精神的、歴史的バックボーンであり、あえて「神のみこと持ち」として目立つことは避けてきたと思えてならない。それが浪速中学校の運営にも少なからず影響したと考えるのは私だけであろうか。府立の有名な高校の校長経験者を迎えればそれで完結という話は私も有力な神職の方から何回もお聞きした。しかしそれは昔の話であり、今はそうはいかない。しかし神社界は何時までもそのように思ってきたところに浪速学院の不幸があったのである。

 確かに旧制浪速中学校は大阪府神社界が創立した学校であり、戦後は歴代大阪府神社庁の庁長など有力な神職が法人の理事長を務めて来られた。他の理事や評議員も全て神職の方々であった。それで「校務運営」は自分たちが招聘した校長以下に「丸投げ」して来たと言っては幾分憚りがあるが必ずしも間違ってはいない。そこには学校経営という概念は無かったと言っても良い。そこが「オーナー系私学」と完全に違っている点であり校長の力量で土台が揺るぎかねない危険性はある。大正12年の創立以来、昭和20年頃まで実に二十数年、歴代の大阪国学院院長は大阪府の「社寺行政主管の内務、総務、学務各部長」が兼任してきた経緯があった。副院長は社寺主管課長が就任した。加えて「総裁」という職位まで設けて大阪府知事がその任に当たってきたことは既に書いた。

 即ちトップと実質的な学校運営は社寺主管課長が担ってきたのである。教育課程も教材選択も、教員配置も確かに神社界の神職の人々に任せていたら一向に学校の設立は進まなかっただろう。学校の建設には「技術」が要るのである。しかしそれも遂に敗戦によって大きく変わった。年表では昭和20年とあるから間違いなく終戦後神社制度の変革に伴って新たな枠組みが作られたのである。即ち組織変更を行い、院長、副院長制度を廃して「理事長制度」となった。余談ではあるが「理事報酬は支給しない」として大阪国学院浪速中学校は創立以来無給の役員によってスタートした。これは有名な話である。従って今日まで本校の理事者の報酬は私を除いてない。世の中にこのような私立学校はあるだろうか。 

当に神職らしい物事の考え方であると私は感服した。しかし一方これでは責任ある理事職として業務の責任はどなるとの思いもあって私は就任と同時にこの制度を改めようとしたが結果的に受け入れられず現在に至っている。強いご辞退である。ただ私自身は神社界とは無縁の者であり、外部招聘の理事長であるから無報酬ではない。無報酬なら来る訳がない。当然の事であり、「適切な報酬に見合う仕事を遂行し必ず結果を出す」ということが民間人の私の責務と考え今日まで来ている。

ただ理事・評議員の各位には報酬はないが年に5回程度はある理事会・評議員会の出席においては「費用弁償」として「日当」を出すことだけは認めて頂いた。そしてご退任の時にも些少で恥ずかしいのだが「記念品」を贈呈することとした。それも私の代からでありそれまでは一切そのようなものはなかったのである。とにかく大阪府からの直接的運営から離れて本校は昭和20年敗戦と同時に、言ってみれば「大阪府から独立」したとも言える。国学院評議員会において理事を選出しその互選によって理事長が決定されたのである。「初代理事長の誕生」である。お名前を「寳來正信」先生と言われる。