2023年6月17日土曜日

「恩頼」と書いて「みたまのふゆ」と読む!

 私は仕事柄、多くの「神事の場面」に身を置くことがある。過日も「新中学校棟地鎮祭」が執り行われたが、宮司様の「祝詞」の中にも良く出て来る「みたまのふゆ」という言葉がある。最初は“みたまのふゆ”を「御魂の冬」だと思っていたが、全くの見当違いで漢字では「恩頼」と書くと学んだ。何故「恩頼」が「みたまのふゆ」なのかは詮索しても意味はない。日本書紀の時代からある言葉なのである。「神の神秘な働きや恵み」のこと意味している。ミタマとは霊魂又は生命力で、フユとは振るう(威力の発動)ことである。神の加護や神に源を発する生命力を信じ、努力すれば目標とする成果が上がり物事が進展成就する。しかしそこには「単に自分だけの力によるものでない」ことを意識していなければならない。6月12日には「新校舎の地鎮祭」が終わり、15日には「開校100周年芸術芸能鑑賞会」が見事に、無事に終えることが出来た。私はこのような時に「恩頼」を感じるのである。全ては神様のお蔭だと。 


今朝ほど新中学校棟の建設現場を視察した。更地化が更に進み、8年前に設置したごみ置き場、西関門、生徒の自転車置き場、時計台などが撤去されていた。このような光景を見て何か心が温かくなってくる。常に学校は「再生」しているのである。これからもドンドン景色が変わってくるだろう。見に来るのが楽しみである。そして登校して来る多くの生徒を見ると尚更今の仕事を与えて下さっている「みたまのふゆ」を感じる。若い生徒と触れ合える仕事を今だに与えて下さっている神様と健康な身体を与えてくれた両親への感謝の気持ちしかない。今日は土曜日であるが学校は通常通りだ。逆にこの時期から本格的に来年度入試に向かって具体的な活動が始まってくる。今日は「第1回中学校入試説明会」があり、生徒の「オープンスクール」の日だった。参加人数は昨年並みでこれから先、12月一杯までほぼ毎週のように入試広報活動が本格化してくる。 


3年間、閉鎖状態であった千早赤阪村の校外学習施設の「多聞尚学館」での学習合宿には高校1年生のトップクラスが英・数・国の3科目の強化に向けて13:30に出発した。4月に入学してまだ2か月強だが本校の方針は「鉄は熱い内に打て!」とばかりに今から大学進学の意識付けを行う。このような施設を有し、泊まり込みで生徒を教える教員集団が本校の宝である。14時からは中学校の入試説明会で初めて4月に校長に就任した西田校長がトップバッターに立って浪中の教育方針と中身を話す。これは是非聞いてやらねばならない。 




14時30分からは「第1回PTA全体会議」があった。高校校長は東京で東京同窓会があるのでそちらに出張して貰い、中学校の関係者はオープンスクールで手一杯だから理事長・学院長の立場で私が参加し、令和5年度の学校サイドの管理職やPTA担当者を正式に紹介申し上げた。又メインテーマは9月の「浪速祭」の形をどうするかであり、これについては私は「実行する」旨の方針を既に打ち出しておりPTAも何か企画を考え祭の盛り上げに協力して欲しいとお願いした。コロナ前ほど派手には出来ないが神社神道の学校としてアイデンティティをまず内部から示したいのである。今回は保護者以外の一般の方々へのご案内はしない。従って「PTAのバザー」は止めた。品物の回収、値付け、販売等々負担は大きく、肝心のPTAの皆さまが生徒達の活動に参加協力出来ないのはこの時代、不合理だと私は考えたのである。




2023年6月15日木曜日

開校100周年記念芸術芸能鑑賞会「劇団自由人会 カーリーの青春」

 実に本校の教員は素晴らしい。とにかく徹底して「生徒の面倒を見る」。この点が凄い。だから生徒も保護者も安心して本校を選択してくれる。生徒の面倒を見るとは「生徒を守る」ことだ。甘えさせることではない。勉強で分からないところを教え、部活動で技を教える。何より「優しい心根を育み、生きて行く精神力を鍛える」ことが本校教育の目的であり、その為には災い、曲がごと、交通事故、自然災害等から生徒を守ることが最優先である。基本的な考えは大切な子どもさんを「保護者からお預かりしているという根本」を徹底して理解し、今や本校の文化となり「風土」となっている。「これが私立学校の思想」である。これが分らない教職員は本校には必要ない。私は貴方の教育観など聞いてはいない。「生徒を愛し、本校の基本哲学」に対応してくれる先生こそ私は欲しているのである。 


次の資料を見て欲しい。今日の開校100周年記念事業である芸術芸能鑑賞会の会場である堺のフェニーチェに至る動線における教員の立ち位置とポイントを示したもので堺東駅では「②西口改札前 エスカレーター・階段を下りず、歩道橋へ行くよう指導」と具体的にマニュアルにあり、徹底して動線を決め、そこに教員が立ち、指導するのだ。この事で2900人の生徒が一般の方々の通行の妨げにならないようにし、同時に生徒を外部からの不測の事態から守るのである。私は何時もこのようになった本校教員の姿勢を高く評価し、満足して喜んでいる。


次の資料は座席表であり、これはどの学校でも必須の事項ではあるが本校の教員は実際に会場を下見して「4階席は真下に舞台を見る感じで良くない」ので3階席までとすると言って来た。この配慮が素晴らしいではないですか。その為に今年は保護者席や近隣の高齢者のご招待はスキップさせて頂いた。生徒数が多くて席が無いからである。フェニーチェ堺は全席で2000席である。今日は午前の部で1487席、午後の部で同じく1487席を決め総勢教員を含めて3000人の一大鑑賞会となった。一日に2回もやる学校なんて余り聞いたことは無い。開校100年を祝って今年は特別に中高合同としたが、今後は中高別々に年齢層に合わせて鑑賞対象を決めて実施引率すれば良いと思う。 


さて今日の演目であるが神戸に本拠を持つ「劇団自由人会」のベストセラー演劇「カーリーの青春」と既に書いた。予てよりお付きのある演出家のふるかわ照先生と劇団の森代表が1月に来校され、演目を何にするか私と親しく懇談し決めたのが「カーリーの青春」だった。当初「ベニスの商人」も候補として挙がり、私自身が実際に鑑賞に行ったが、これは生徒には少し暗く、難しいかなと思い、カーリーにした経緯がある。結論的に「生徒の反応」を書こう。15分おきに会場一杯に拍手が鳴り響くものだった。終幕には会場が割れんばかりの歓声と拍手だった。演目選定は間違っていなかったのである。 生徒の反応は本当に「大大ヒット」と言っても良い。

この演目は自由人会が既に1750ステージを突破し、112万人が涙した劇団自由人会不朽の名作であり、オリジナル作品であることが本校での上演でも証明された。「愛することは生きる事。生きる事は信じる事だと教え、愛が如何に人間を豊かにするか」、愛こそが青少年の未来を照らすとのこの演劇の核心は教職員にも参考になったと思う。本校生徒も愛を知り、愛を感じたいのである。だから大きくこの演劇は受け入れられた。毎日接する先生方は生徒を愛している気持ちが時に伝わるように指導して欲しい。これが出来ない、無い教員は最早本校で教育に携わる資格は無い。開校100周年記念芸術芸能鑑賞会は大成功に終わった。劇団自由人会の俳優の皆様、実に力の籠った素晴らしい演劇を見せて頂き、有難うございました。心から感謝致します。素晴らしい記念事業になりました。 


2023年6月14日水曜日

6月は「さよならの季節」

 6月は「さよならの季節」でもある。民間企業はこの時期株主総会があり人事異動の季節でサヨナラの場面が多い。学校は6月には無く、卒業式のある3月が該当し、生徒やPTA役員や教職員の入れ替わりがある。しかし本日、珍しく“さよなら”があった。名物であった「赤ポール、3面時計台とのサラバの日」となった。新校舎建設時に多くの時間を割いて検討し、特別に造った物で、8年の間、時を知らせてくれたこの赤の時計台が遂に撤去された。新中学校棟建設の敷地内に有り、何とか他の有効利用先をと考えたが、撤去、移設の費用を考えると、どうしようもなく廃棄を決めた。「長い間、お世話になりました」と私は現地で別れを告げたのである。 


10時には本校の制服を一手にお世話してくれている最大手の制服会社(株)トンボのH大阪支店長さんがご転勤で岡山本社に移動されることになり、後任のT支店長さんと共にご挨拶にきてくれた。立派な支店長さんであり、何時も入学が決まった生徒の制服採寸を自らやっておられた光景を思い出す。先の100周年では全ての行事に参加して頂き、極めて多くの寄付金も頂いた。私もサラリーマン時代を思い出し、「サラリーマン物語」に花が咲いた。今後ともご健康でご活躍を祈念申し上げた。

 

11時30分には明後日、日本をたってスエーデンに帰国する留学生のL君が担任と挨拶に来てくれた。長身でハンサムボーイ、多くの良い影響を本校生徒にも残してくれた。私は感謝の思いがあって昼食に招待した。さよならランチだ。昨年9月に大阪に到着し12日から登校を開始し、約10か月間の留学だった。素晴らしい好青年で両親とも大学教授という一家に育ちスポーツ好きな留学生であった。今年の5月にはストックホルム大学で言語学を研究している母親が大阪大学との連携で大阪に来られその時に本校にも来てくれた。母親がその時に息子さんを「マイ、ベイビー」と言っていたのが今でも強い印象となって残っている。世界的に有名な大学教授でも「こうなんだなー!?」と母親と息子の関係は世界共通なものだと得心した。 


今日は時間が有ったので前述したように、さよなら「クイックランチ」を急遽持つことにしてL君との別れを惜しんだ。彼はもう「日本語がペラペラ」になっており、スエーデンに帰れば母国の高校で更に3年間学び、その後大阪大学か北海道大学に進学希望だと言う。私は強く阪大にするように勧めた。浪速との絆が今後とも続くことになるからだ。しかし海外の保護者の教育方針が素晴らしい。子どもを自由に海外の高校で学ばせるのである。高校に4年間行くことなど全く問題にしていない。そして海外の若者の志と柔軟さに今更ながら驚いた。本校は勿論この方針で進めており成果も出つつあるが更に加速させ内向きから外向きにしないと日本は駄目になる。 


午後のかかりには理事長特別クラブである雅楽部と神楽部に「奉仕料」の授与式を行った。神社神道の学校として最も私が大切にするクラブである。先の開校100周年奉祝祭でも素晴らしい雅楽と舞楽を学院神社の大神様に奉納してくれた。年に2回、私が奉仕料を手渡して感謝の言葉を述べ、激励するのが習わしになっている。この2クラブだけは今後とも理事長直轄のクラブとしたい。学校のアイデンティティを直接示してくれるクラブだからである。最近ではその名も府下に通り、外部演奏の依頼も増えて来た。大変結構な事であるが特に雅楽の楽器をものにするには相当のお稽古が必要で部員数の確保が何時も私の頭を悩ます。





2023年6月13日火曜日

茶道部へのお道具一式授与式

 昨日の地鎮祭を無事に終え、一夜明けた。今朝は自分の席で本当に安堵している自分の姿を見る。地鎮祭の中で「地鎮の儀」という儀式があり、「苅始めの儀は鎌」でこれは南海辰村建設の技術者が、「穿初めの儀は鋤」でこれは施主の私が、そして「鎮物埋納の儀」は宮司さんが、そして最後を飾ったのは「鍬」を使って土をかぶせ、鎮物を埋納されたのが南海辰村の社長さんであった。粛々とこの順番で儀式は進んだ。私は神職から鋤を拝受して「エイ、エイ、エーイ」と100年前の本校創立に関わった人々に届くような大きな声で力強く地中に差し込んだ。単に行事だけではなくて校内全ての物事が着々と静々と計画通りに進んでいることが余計に嬉しい。次の「開校100周年記念事業」は15日の「開校100周年記念芸術芸能鑑賞会」だけとなった。開校100年と「冠がつく行事」はこれが最後である。生徒、教員総勢で3000人を超える人間が午前、午後の部と2回に分かれて堺市のフェニーチェ堺に赴き、今度は「生徒の為の100周年行事」である。神戸に拠点をおく劇団自由人会のよるベストセラー演劇とも言われている「カーリーの青春」を私も時間を取って鑑賞に出掛けることにした。 


昨日、地鎮祭を終えた私は放課後武道館のお茶室「洗心亭」に赴き、表千家、指導者の木村宗匠、ご社中の方々お揃いのところで新入部員16人に対して「茶道具一式」の授与式を行った。創立当初は男子校で勿論茶道部など無かったが共学に転じた時に私は茶道部を作り今や部員総数も格段に増えている。一人一人にお道具を手渡しながら激励の言葉を付け加えた。授与式の後、私は講話で開校100周年にちなみ、今日のお茶は「先人に捧げるお献茶の気持で点てなさい」と言った。そして新入部員に対して茶道の精神は「和敬清寂」であり、和を尊び、相手を敬い、清々しく、自己と周囲を見詰める寂の心を生徒には感じ取って欲しいと述べた。お茶の心があれば相手を許せるし、それで自分の心も豊かになれる。決して茶道部の中で友人同士のいさかいなど有ってはならないとも付け加えた。生徒達は静かに聞いてくれた。




2023年6月12日月曜日

新浪速中学校棟建設の「地鎮祭」

 「地鎮祭(じちんさい)」とは、土木工事や建築工事を行う際、工事が無事に終わるように神主さんを招いて「安全祈願」をする儀式のことで、その土地を守る「氏神様」に土地を利用させてもらう許可を得て、工事の安全を祈願するという意味である。今日6月12日、請負の南海辰村建設さんの主導で「新中学校棟の地鎮祭」が9時から行われた。生憎、朝方は小雨模様であったが、式典の始まる頃は上がり、まさに「雨降って地固まる」と言う状況になった。雨は決して悪くはないし、「恵みの雨」という表現もある。元々は何かトラブルが発生したが、それが解決してしまうと、それが発生する前よりかえって良い状態になっていることで、往々にしてそういうものであるという「達観」である。語源を調べてみたが江戸時代の「毛吹草」や「浮世草子」にその用例が見られ、少なくとも約400年間は日本人の多くの人々によってこの言葉は好まれて良く使われてきた。私も時々使う。 



類語や関連語も多く、 楽あれば苦あり、災いを転じて福となす、禍を転じて福となす、怪我の功名、塞翁が馬、失敗は成功の基、台風一過、七転び八起き、案ずるより産むが易し、(私もゴルフでよく使う言葉)結果オーライ、気持ちの良い言葉ばかりである。大正12年(1923)4月30日、校舎が間にあわず工場の建屋を借りて204人で開校され、その日から直ぐに授業とした旧制浪速中学校は1年後、ようやく手にした校舎も府立梅田高等女学校からの移設と言う状況下にあった。が、まさに「雨降って地固まる」ではないが先人のご努力により今、我々が恩恵に預かっている「今日の隆盛」がある。100年の間には様々な試練があったが、時代時代の人々の頑張りで「災いを福に転じ」今日に繋がった。全ては「学校があればこそ」である。学校が無ければ生徒も教職員も、「今に生きる私たち」はこの地で同じ絆で結ばれてはいない。この認識が最も重要である。 





「地鎮祭をどうされますか」という問い合わせに私は即座に「やる!」と答えた。100年前の浪速中学校創立に東奔西走し、「その後の艱難辛苦」を乗り越えてきた高天原にいらっしゃる人々に天上世界から地鎮祭の光景を見て頂きたいと思ったからである。ようやく「自前の校舎」が持てるようになったことをご報告したいのである。4月30日、私はご来賓の方々の前で「新浪速中学校棟建設宣言」を高らかに謳ったが、今日はその第二弾、具体的に工事が始まる象徴としての「地鎮祭」であった。


地鎮の儀は滞りなく進み、見事に終わった。「神酒拝戴」の後、私はご斎行頂いた坐摩神社宮司様、南海辰村建設の社長様以下設計工事の方々、ご参列頂いた本校役員、PTA、同窓会、ファミリーの方々総勢58名の方々に私の思いと御礼を申し上げた。多くの拍手を頂き恐縮した。特別に中学校生徒の代表たちも勉強に参列させた。これから年末まで約半年をかけて地を固めるために極めて多くの杭を打ち、来年から建物工事に入る予定である。地上6階建ての先進的な建物でこのような設計の校舎は日本で初めてというくらいの建物を作る。完成時期は令和7年3月、この年は大阪万博の年で大阪が世界に雄飛する年で浪速中学校も一段とその名を大阪中に響かせて欲しいと思う。私は何か一区切りをつけ、身体中に安堵感が広がった。