2026年5月8日金曜日

校舎も無く、校長も居ない入学式・・・103年前の旧制浪速中学

 連休中も教職員や生徒には「曲が事」(事故や災厄など)が無くて、全員無事に揃い、薫風香る快晴の中、5月のスタートとなった。神様のご加護を受けていると思う心が信心であり、謙虚な気持ちに災厄は遠のくと私は信じている。今日の「一斉参拝の学院長講話」では一点のみを時間を取って教職員と生徒に熱く語った。今までも5月の参拝時には行って来た事だが、今日はより詳しく、丁寧に話し、「この学校はどのような学校?」という問いに応えんとしたのである。それでこそ「4月30日の開校記念日」と「5月1日の創立記念日」を休校としている意味と意義がある。取りすがりの日ではなくて今自分たちが居る場所の歴史的経緯を知ることはその後の人生にとっても重要である。

 

今から丁度3年前の「令和5年4月30日に創立100年周年」を迎えた。私は渾身の力であらゆる資料を読み、歴史書ともいうべき冊子を纏めた。これは恐らく後世への大切な資料となるであろう。その日、4月30日に「旧制浪速中等学校は第一回目の入学式」を挙行し直ぐに授業に入った日である。だから「開校記念日」なのである。数年後、学校行事の関係から5月1日を「創立記念日」と称し、今日に至る。とにかく生徒数204名で浪速中学校は出発した。令和8年度の新制浪速中学校の入学者数は191人だから、推して知るべし、期待の中での船出であった。生徒募集は府庁で行い、入学試験は「天王寺師範学校」で行ったとある。「校舎も間に合わず」、結局今の高野線我孫子駅と沢之町の中間西側の「元工場の建屋」を借りて「東成郡墨江村仮校舎」と銘打って204名の生徒で「浪速中等学校は出発」した。

私はこの地域の古い図面でこの仮校舎の址を探して歩いたがその面影は当然のことながら何処にもなかった。今は住宅街になっている。添付の古い写真を見ると他には建物など何もなく南海の高野線の電車が後ろを走っている。今から103年前の写真である。校舎だけではなくて学校敷地も校長先生も居ない「無いない尽くし」のスタートであったが、今では考えられないくらいのスピードで学校は立ち上がった。それは「大阪府の強烈な指導支援」を得ながら本校は開設されたからである。


この事を裏付ける格好の資料があった。それは「60周年史」の巻頭にある「当時の大阪府知事岸昌氏の祝辞」である。挨拶文は冒頭以下のような文章である。“(前略)貴校は大正12年大阪府下の神職団体である財団法人大阪国学院が浪速中学校を創設したのが始まりであります。今では余り知られていませんが戦前は浪速中学校と大阪府とは密接な関係にありました。当時大阪国学院の総裁には大阪府知事が、また院長には大阪府内務部長が就任するなど「準公立的な一面」を持っておりまして他の私学とは趣を異にする独特の学校であると言えましょう。・・・(後略)”前述の「準公立的一面」と言う言葉で全てが分かる。

校舎も無く、校長先生も居なかった入学式であったが全てが迅速に進んだ。今ではあり得ないことだった。実は大正12年2月28日、設立者、大阪国学院は中等学校の設置を府に出願し、そして驚くのは一ヵ月後の3月31日に「設立が正式に認可」されている。この速さは尋常ではない。そして4月17日に大阪府から教育主事であった大島鎮冶氏が「校長事務取扱」として着任され、2週間後の4月30日に入学式が挙行された。古い写真で見る限り教職員はわずか8人であった。正式の初代校長は1年後にご着任されている。以上の全てが府主導で進められた。まさしく本学院は準公立的な一面を有し、誕生し、スタートしたのである。



明治維新を成し遂げ我国は前途洋洋「坂の上の雲」の時代に本校は神社神道の学校として、この住吉の地に誕生した。爾来、紆余曲折はあったが、103年の時を刻み、今や府内トップレベルの規模を誇る学校に成長した。私は声を大にして「良い学校で学び、良い学校を職場としている誇り」を自覚し、有意義な毎日を過ごすように激励し、「開校103年目の温故知新の特別講話」を終えたのである。