2024年7月27日土曜日

「1に努力、2に努力、3,4が無くて5に努力」

 朝10時に学校を出て、事務室、Kさんの運転で京都に向かった。昨年は主担当の当時3学年主任だったI先生の大きな車に乗せて貰って京都の中京区河原町の「お宿 いしちょう」さんに行ったことを思い出したが今年は通常に戻った。基本的に理事長が教員の車に乗る事を私は潔しとしない。秘書役の事務室勤務の職員が事故などの時を考えれば好ましいと思う。この観光旅館は知る人ぞ知る幕末の俊英木戸孝允こと桂小五郎の旧居跡にある格式高い旅館である。女将の出迎えを受けて25日から「大学受験強化合宿」をしている生徒35人への「激励訪問」であった。1昨年から利用している旅館でサービスには満足しているから今年もここにしたのである。諸物価値上がりで安価な本校施設の千早赤阪村の「多聞尚学館」でした方が良いのではと担当の先生方に水を向けたが、たまには環境を変えるのも良いかなと思い了承した経緯がある。

「お宿 いしちょう」は元来、「石長」と書くらしい。当主の姓「石井」の石を取り、「長」は長州藩の長を貰って、当館の氏神神社の宮司よりのお言葉で「長」は長く栄える意味が含まれているとの意味合いから、「石」と「長」で「石長」の名が刻まれるようになったと女将から聞いた。読み方も、本来なら「いしなが」か「せきちょう」が正しいのですが、この時のお言葉が「お宿 いしちょう」とするようおおせつかり、現在にいたっているとの事だった。確かに「長」の漢字には長い、長寿、成長,とこしえ等々良い意味が多い。頑張っている生徒達には格好の良いお宿かも知れない。


このように夏の間は修学旅行で京都に来る学校も少ないから結構良好な宿泊場所が取れる。広い館内は大学生とか本校みたいな高校生だから安心であり、高校3年生の中で偏差値の高い大学を目指している生徒が今日から8日間、毎日「受験勉強」と闘う。教員も入れ替わり京都入りして指導をしてくれる手筈で、校長は伊勢だから校長訪問は31日である。生徒への差し入れとして「焼き立てパン」を山ほど持って来た。話した内容は一に「努力」、二に「努力」、三四が無くて五に「努力」である。時に私自身の高校生時代の話を交え、これからの人生へのキックオフとなるような学習合宿となるように幅広く話した。時間は30分、生徒は受験生だからその目は輝きしっかりと聞いてくれた。


明治維新の元勲として知られる木戸孝允の旧居跡に建てられたこの旅館であるが、孝允は幕末には桂小五郎と名乗り、その妻が元芸者の松菊である。夫唱婦随、仲の良かった孝允は何度も彼女に救われている。47歳と言う若さで早世したが、とにかく大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えら、私はここにくると木戸孝允の実物の写真や直筆の手紙などを見るのが楽しみである。生徒たちにもこの宿は京の風情溢れるなかにある木戸孝允ゆかりの宿だと話したが恐らく頭には残っていないと思う。しかし何かの調子にこの旅館の事がこれからの彼らの長い人生の何処かにおいて出て来るであろう。近代国家となった我が国はここ京都の地を中心に、多くの若者の熱量で維新が成就したのであり、「若者の特権は自分を変え周囲を変えることが出来る」と話したがこれも幾分難しかったかも知れない。まだ頭には志望する大学への合格しかないからだが、頭の片隅には少しでも残れば、こちらは本望だ。

2024年7月26日金曜日

大阪天満宮「天神祭」

 「八軒家浜船着場」には少し早くて夕刻5時には到着した。旧淀川(大川)左岸に設けられた船着場・八軒家浜(はちけんやはま)は2008年に開設された観光用岸壁である。この歴史ある船着き場には大阪天満宮の夏祭りである「天神祭り」に天満宮の宮司様からご招待を受けて乗船できる「供奉船」としての「屋形船」2艘だけが接岸されていた。今回この供奉船に乗る機会を得たのは私とM常務理事の二人であり、私は都合3回目であったが常務は初めてと聞いた。船のおかみがまだ出るまでには1時間もあり、乗って待っていると横揺れで船酔いしますよと言われ、時間調整して乗り込んだ。そして43人の定員一杯を乗せた船は6時の定刻から大分遅れて岸を離れた。 

江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、この地は京の伏見と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれるターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄え、このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれている。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面がある。また摂津名所図会「八軒屋」、浪花百景「八軒屋夕景」で知られており、その風情は今では周辺、ビル群で囲まれていても残存している。私は長く続いた江戸時代と激動の幕末史を彩った天満橋周辺、京と大阪の大動脈であった淀川の終点であるこの当たりの地に大変に心惹かれる。歴史の変遷を強く感じる。 

「天神祭」であるが、日本各地の天満宮で催される祭りでる別に大阪だけの祭りではない。ご祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日で、25日前後に行われる。しかし各神社で行われる天神祭の中では、「大阪天満宮を中心として大阪市で行われる天神祭」はご存知のように「日本三大祭の一つ」として特に有名である。昨日の25日の本宮の夜は、大川に多くの船が行き交う「船渡御」が行われ、天満宮と深い繋がりのある学校法人のトップ2名が「開校101年目の船渡御」において供奉船への招待を受けたのだから有難い話だ。「神霊をのせた御鳳輦奉安船」に、お囃子をする船や供奉船などが従い、天神橋のたもとから出航して造幣局や中之島のある大川を遡り、反転して下ったルートである。 ビールや清涼飲料など飲み放題、それにお椀物、幕の内懐石料理、デザートなど宮司様「心づくしのおもてなし」を受けて大川を宮司の乗られている船の後からまさしく供奉して参った。 




目玉は夜空を焦がす「奉納花火」であり、3か所から時間を調整しながら3000発の花火を愛でた。 大川に映る篝火や提灯灯り、花火などの華麗な姿より「火と水の祭典」とも呼ばれているが、100艘ものお船が行き交うたびに「打ちましょう」の掛け声で「大阪締め」から手を打つ音が水面に響く様子は「まさに大阪を代表する祭り」だと感じた。陸には行きかう人、人、人で壮観な眺めであったが大川の上も警備艇などが行きかい、出発の八軒屋浜の船着き場には予定を大幅に遅れ9時40分の接岸となった。蒸し暑くて必ずしも快適な船上とは言い難かったが「天神祭りの夏はこのようなもの、夏は暑いもの」だと思い、100万人以上の人々の間を縫って自宅に急いだ。


2024年7月25日木曜日

灯台下暗し、類は友を呼ぶ!

 建設中の新中学校棟の玄関、「西関門」を入って直ぐの左側の壁面は幅が横5m、縦に3mの壁面があり、ここにはこの校舎を象徴する「芸術的な古事記神話」の木彫り彫刻作品を飾ることは当初から決めていた。テーマは「八岐大蛇」である。この神話世界の重要な「悪役スター?」を是非ここに飾りたいと思っていたが、その彫刻を何方に頼むか、思案にくれていた。当初は「この人は良いかも?」と考えていた人物は居たには居たが、結局ご縁がなく、正式にお断りして新たなる彫刻師を探し出さねば成らなかった経緯がある。しかし「類は友を呼ぶ」の例えの如く、今や浪速ファミリー(類)の一員でもある石川県白山市の「浅野太鼓」さんの浅野社長に相談してみると、簡単にこの問題は解消した。昨日の事である。 

過去共に仕事をした仲間を類とすると、この類には気の合った者や似通った    友が自然に寄り集まってくるもので、まさしく「灯台下暗し(とうだいもとくらし)」であった。灯台のすぐ下は暗いところから、身近な事情はかえって当事者には分かりにくいとの例えであるが、私は既にこの方を存じ上げていたが、当初から遠方であり、ご年齢を考え、意中の人ではなかった。しかしまさしく灯台下暗しであった。浅野社長は昨日、日本遺産「木彫刻のまち 井波」から「井波彫刻」の大家である畠山工房の畠山親子先生をお連れしてのご来校になった。初めて学校に来て頂いたことになる。畠山先生は昨年の開校100周年時に購入した「3尺大太鼓の土台脚に上り龍」の彫刻を浅野太鼓さんの請けとして制作して取り付けて頂いた経緯があった。まさしく類は友を呼ぶである。 

建設中の現場をご案内し、次に神社神道の学校としてのアイデンティティの数々、「古事記序文」の書体、ガラス絵の「天孫降臨」、壁画の「天の岩屋戸」等々をご案内し、私の部屋でまず古事記の本を差し出し、概要の説明から入っていたのだが、全くの杞憂であり、私は恥をかいたと思った。具体的な話に入ったが、打ち合わせの時間は極めて短時間で終わった。畠山先生は「八岐大蛇」伝説を詳細にご存知であり、過去兵庫県の高砂市の太鼓台にこの八岐大蛇伝説を製作した経験がお有りであった。「やりたい」との意欲は満々であり、ごちゃごちゃ言わず施主に添った対応をされる。とにかくその時の下絵をご持参して下さっており、これを観た私は言葉を失った。本当に見事な出来で、迫力もあり、美術的にも美しく、主役の八岐大蛇、これを退治したスサノウノ尊、草薙の剣、将来お妃になられるクシナダヒメ等々フルキャストの絵巻物が私の眼前にあった。私はその場でお願いし発注した。 


畠山先生は今年86歳になられると自ら言われ、人生最後の大きな作品に巡り会えて「精魂込めて造る」と力強くのべられ、私に握手を求められた。職人には納期が命で納期のタイミングを逸したらその作品は意味が無いとまで言われ,井波に帰って直ぐに下絵の制作に取り掛かると目はギンギンに輝き始め、とても86歳にはお見えにならなかった。「理事長は新しいものがお好きですね、私もそうです!」是非学校の一画に浪速中学校のホットスポットとして生徒を見守る「八岐大蛇神話」を内外の評判を呼ぶような新しい感覚で作りましょうと言われるのである。これは世間一般の「職人気質(かたぎ)」ではない。私も「学校作りの職人」を目指していたが意を強くした。あくまで生徒の為にこそ存在する私立学校経営の職人だ。昨日畠山先生にお会いして、この道で間違いはないと確信した。



2024年7月23日火曜日

「学院曲 海道東征浪速と浪速の東征門」

 「海道東征(かいどうとうせい)」は北原白秋詩、信時潔曲による交声曲(カンタータ)である。1940年(昭和15年)に皇紀2600年を祝賀する「皇紀2600年奉祝曲」として作られた。白秋晩年の大作、信時の代表作である。私はこの名曲をご遺族のお許しを得て学校の吹奏楽版「学院曲」として編曲し、式典や樫原神宮への奉納演奏など、今や本校しか持ち得ないこの曲を縦横無尽に使い神社神道の学校としてのアイデンティティを高めている。役員の中にはこの曲を聴いて涙ぐむ宮司さんもおられる。私もだ。 

私は新校舎とグランドの境界に大型バスが楽に出入りできる門を作った。とにかく拘ったのは門の大きさとその名称である。南海バスさんに頼み、何回も入船、出船で門の出入りを確認して現在の場所と大きさになった。名称は秘かに考えており、「東征門」とした。そう、初代神武天皇が建国の為に海道を東に向かって進んだことにちなみ,東征門と名付けたのである。本校では正門を除き、あらゆる門で古事記や、日本書紀所縁のネーミングを付けている。「北辰門」「西関門」「天の岩屋戸門」等々である。 

私は市内「浪速区」に住んでおり、まさしくこの浪速は古代大阪の代名詞である。勤め先が浪速学院、浪速高等学校、浪速中学校であり、このご縁から、この「浪速と言う字」が大好きで気にいっている。後輩達には「決して学校が吸収合併されてこの浪速の名前が無くなるようにはなってはならない!」と厳命している。ところで私は趣味と言うか健康の為に時々近隣を歩いたりしているのだが昨日「浪速小学校と言う名盤」を見つけた。ただし読みは「なにわ」ではなくて「なみはや」とわざわざフリガナを付けていた。中央区日本橋の市立の小中一貫校であった。私はこの名盤を観てとても親近感を持ち、嬉しくなった。 

難波(なには)の碕で祭祀を行ったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、現在の東大阪市の日下あたりに遂に上陸を果たしたと日本書紀は記す。目の前に迫る生駒山を越えれば、日向でシオツチヒコに「東に美地(うましつち)有り。青山四周(あおやまよもにめぐ)れり」と教えられた「大和の地」である。「大和はうるわし」、日本国建国の地である。徒歩で生駒越えを試みる一行を先住民のナガスネビコが待ち構え、戦を仕掛けた、と古事記は記す。東征で初めての戦端が開かれた場所は現在の東大阪の孔舎衛坂(くさゑのさか)で、生駒山の西側である。そこには今も「聖蹟伝承地として石碑」が立つ。白秋はこの「浪速(なみはや)」の呼称を海道東征第7楽章に2回も入れている。

 今朝は伊勢修養学舎で高校1年生250人がバス6台に分乗してこの海道東征所縁の「東征門」を出て伊勢に向かった。「浪速の地から伊勢は東に位置」し、まさしく生徒達にとって厳しい伊勢での心の修養に向かうのだから私は必ず東征門を出でてこの「自分との戦に勝ってくるように」との思いを込めて手を振り生徒を見送った。


2024年7月22日月曜日

「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(さんど)」

 先週の19日、金曜日に落語家の「4代目桂福團治師匠」と会食する機会があった。9月13日の本校秋季例祭の夕刻に福團治一門による落語会をお願いしており、その詳細な打ち合わせであった。昨年は開校100周年を大々的に祝い、心新たに次の100年、「ネクスト100」を合言葉に元年として令和6年はスタートした。その号砲として84歳になられても今なお、現役で頑張っておられる日本落語会最長老の「人情噺」を得意とされる名人噺家の福團治師匠を私は本校の秋季例祭・浪速祭にご招待申し上げた。師匠は本校OBの直木賞作家である故藤本義一さんと深いご縁があり、この作品「鬼の詩」の映画化の際には主演を務められている。又お住まいは学校から至近の距離でもあるご近所さんで、私は長いご厚誼を頂いている飲み友達でもあり、とにかく謙虚で立派なお方である。 

その席で師匠から「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(さんど)」と言う言葉を教えて頂いた。伊勢神宮へは7回、熊野三社へは3回、お詣りすると言う事だが、これはたびたび参ること、信心の深いこと、また、信心はどんなに深くしても限りはないことの例えだと後で物の本で学んだ。有名な落語の「伊勢参宮神乃賑(いせさんぐうかみのにぎわい)」、通称「東の旅」と言う落語は伊勢参りの道中を描いた上方落語の名作であり、この中に先の言葉は出て来ると福團治師匠はおっしゃっていた。大阪の落語家はこの話から修行に入るとお聞きした。 

私などは神社神道の学校の理事長・学院長としてその前は高校の校長を兼務していたので既に「七度どころか」、100回以上もお伊勢参りを経験して来た。最も生徒の為の「伊勢修養学舎」への帯同だから私の仕事である側面はある。しかし何時も1学期の終業式の翌日から始まる伊勢参拝は「自分の過去1年間の穢れ汚れを落とす」ためと思って、一回も欠かさず今日まで続けてきた。確かに伊勢は違うのである。何かが他の場所とは異なる。「五十鈴川での禊」後は「言いようもないこの身の清浄感」を感じ、伊勢に行くと何やら「ふるさとに身を置く」みたいな「心地良さ」を感じる。 


昨日は「第71回伊勢修養学舎」があり私は第1班に合わせて午前8時に学校を出発した。事務室のKさんの運転する学校車である。高速道路が完備され、順調に車は進み、10時30分には「宇治橋」に到着した。広い境内をただ黙々と歩き、「内宮」に参拝。日曜日と言う事もあり参拝の人々で大いに賑わっていた。翻して「神宮会館」に到着し、本校理事でもある館長さんと暫しの懇談を行い、昼食のご接待を賜った。その後生徒が講堂に打ち揃ったとの連絡を受け「開講式」に臨んだ。そこで理事長としての「開講挨拶」がメインの責任である。この模様はビデオで録画され後に続く2,3,4班に同じものが開講式で映しだされる手筈となっている。

 




その後「高校校長の講話」が続き、その後は生徒全員が4台のバスに分乗し「猿田彦神社」に向かい校長と生徒代表による正式参拝を行った。私はこの「道開きの神さま」について短い講話を行い、「志しを持ち努力と忍耐、感謝の気持ちを持つことで間違いなく君たちの道は必ず切り拓ける」と激励した。宮司様と短い時間だったがご挨拶をし、その後又バスに戻り、今度は「外宮」に参拝した。本当に暑い日であったが生徒は一糸乱れず素晴らしい歩きでご本殿に向かい、「御垣内参拝」を許された校長と生徒代表に合わせて「柏手」を打った。





これで私の役目は終わり、後は校長、副校長、学年主任、神道科教諭に任せて学校車に乗って学校に戻った。時刻は夕刻の17時30分であった。良い時を過ごしたと「幸せな疲労感」を感じ、関係する教職員へのお土産である「伊勢うどん」を車からおろして、自宅に向かったのである。




2024年7月20日土曜日

理事長・学院長臨時特別講話「3S」

 節目、節目に私は「管理職会議」を持つようにしているが、1学期の大詰めを迎え、全員を招集した。そこで各管理職に1学期の成果について言及し、心から感謝と慰労の言葉を述べた。そして2学期の組織目標を具体的に示し担当まで決めた。幾ら私が声高に目標を叫んでも部隊を動かしていく管理職が気付かない、動かない、考えない、仕事が遅い、早く帰る、休みが多い、等々では成果など上がる訳が無い。本校の管理職はその点「お見事」の一言である。私は今の浪速は最高の精鋭が揃っており、教職員が見事に一体となって成果を出している。このような管理職と教職員を有している私は幸せ者である。 


今日は「浪速中学校の1学期終業式の日」であった。それに先立って「神前奉告の儀」を済ませた。今日は久し振りに全中学生が神社前広場に並んだ。その昔の終業式は中高同時の開催であったが、それぞれ行事の関係で今は別々に行っている。例えば明日から高校1年生は4班に分かれて「伊勢修養学舎」が続く。まさか夏休み期間中に最も重要な学校行事を入れるわけには行かないから高校の終業式は31日だ。それまでに京都での特別選抜の大学入試特訓や海外の学生を呼んだ「グローバルアカデミー」があるなど今日的には実際の夏休みというのは長い期間は無い。8月26日が中高同時の2学期始業式となる。 


3限目に中高同時にオンラインで異例なケースだが理事長学院長特別講話を1時間とった。話す内容は2学期から始まる「学校5日制」についてである。今までも何回となく言及しPTA総会や理事会などで機関決定しているが生徒には何回も何回も言わなければならない。極めて大きな変革であり、久し振りに力の入った説明となった。パワーポイントを使って要点を説明しながら3090名の生徒に誰ひとり取りこぼしのないように説明することは学校の責任である。私の後、高校教頭が具体的な講座選択などの取り決めなどを説明し、これで公式に2学期から開始する旨の宣言を行ったことになる。「土曜日の有効な使い方」などの表現は少し古臭く、ダサイ感じがするので、新しい土曜日を「Saturday  Something  Special (3S)」、生徒の自学自習教室は「Self  Study(2S)」とし、生徒が自ら選択できる特別講座を「Own Selection (1S)」と呼称することも正式に伝えた。 




14時から職員会議があった。私は今朝ほどの管理職会議での話をベースに要点を述べて感謝と慰労の言葉を述べた。本当に良くやってくれたと思う。生徒は夏休みや特別講習などに入るので教職員の勤務は8月8日から18日まで「リフレッシュ休暇」としているのでこの間ゆっくりとした時間を過ごして欲しいと申し上げた。