2024年1月31日水曜日

開校以来100年目の卒業式

 100年の歴史で恐らく初めての快挙かも知れない。知れないと書いたのは記録に残ってないからだ。今日の卒業生で「木村賞」を授与した「中高一貫クラスのT君」が防衛大学医学部医学科に合格した。私は大声を上げて「やったー!」と叫んだ。この大学は入るのが超難関大学として知られている。防衛医科大学校(防衛医大)医学科の偏差値は70と言われているが、これは全国の82校の医学部の中で13位に位置していて、偏差値は極めて高水準である。2023年の時は偏差値69.8であったが、この時の東大理科一類が67.5だから、理Ⅰだったら防衛医科大学校医学部合格は東大が受かるよりも難しかったと言える。確かに防衛医大は東大の理三や京大医学部など最難関国公立医学部の「練習台、お試し台」として知られ、超頭脳明晰な受験生が大量に受験すると言われている。このT君は来る「京大医学部」にも受験する。私は初の防大医学部合格の報で嬉しく京大受験は頭から吹っ飛んでしまっていたが、天下の京大医学部だ!頑張って欲しいと激励した。多分京大も受かるだろう。 



T君に差し上げた「木村賞」は御代替わりの令和元年に理事会の決議で設定された「本校最高位に位置する特別褒賞」であり、在学3か年間学業優秀、生活態度優秀で他の範であった生徒に授与されるものである。私が対象者を決めるのではなくて、学年団で慎重に審議され選出された生徒である。この褒章の名称「木村賞」も最終的に職員会議で確認されたもので平成19年から「浪速改革」を推し進め、飛躍的に本校を発展させたとして私の名前を後世に伝えるべく決まったものだと聞いている。私としては名誉な事であり原資は個人から「500万円」を木村育英奨学ファンドとして学校会計に納付した。又今後私がリタイアする時には経営功労金と退職金から「木村育英奨学財団」を設立し、そこに大口の寄付をして経済的に恵まれない本校生徒の為に使って欲しいと既に信託銀行に遺産管理をお願いしている。 




しかし今日の卒業式は「開校100年目の卒業式」「戦後76回目の卒業式」となったが極めて厳粛な中にも盛り上がった18クラスの式典となった。式典が終わっても生徒も保護者も帰ろうとせず、神社前広場は人人で埋まった。初めて重要分掌長を担ったI学年主任の先生のお人柄か、総じて纏まった学年であった。優秀な先生ばかりに囲まれ、良い生徒に恵まれ、大きな問題は無かった。とにかく卒業式は感動を呼ぶ。今日一日の私の時程を整理してみよう。・6:50登校 ・7:30式服に着替え ・8:30自室にて来賓応接(PTA会長他、同窓会長、神社庁顧問) ・8:50神前奉告の儀 ・9:30  卒業証書授与式参列 ・12:30式典終了後木村賞受賞者との神前写真撮影 ・13:00木村賞のT君と保護者との懇談 ・13:10職員室にて3学年団への慰労の言葉と慰労金の金一封授与 ・13:20担任団との記念撮影 13:30から神社前広場にて求めに応じて記念撮影  






何時も思うのだが学校勤務の良さ、楽しさは「人、物事が1回転していく中に身を置く!」からかも知れない。今日、高校3年生を送り出し、2月10日には高校入試で新しい入学者候補のお顔が見える。学校には新しい血が入り、又3年ピッチで繰り返していく「鋸の刃」みたいだ。しかし本校ののこぎりは水平ではなくて「右肩上がり」であることだ。これが有ればこそ、浪速学院は今までも今後とも進化し続けると言える。先生方もこの事を感じておられると思う。学校で働くと言う事は時にしんどいが卒業式で全てが吹っ飛ぶのだ。

2024年1月27日土曜日

二十歳の集い~浪速に戻る!

 好きな物語のストーリーに「父帰る」がある。大正6年(1917年)に発表された菊池寛の有名な戯曲で全一幕、今まで3度映画化され、又舞台化もされている、名作中の名作だ。明治40年頃のことで、かつて家族を顧みずに家出した父が、20年ぶりに“落ちぶれ果てた姿”で戻って来た。母と次男と娘はこれを温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え、弟妹を中学まで出した長男、賢一郎は、決して父を許さず、仕方なく父は家を去る。しかし哀願する母の叫びに賢一郎は翻意、弟を連れて狂ったように父を追う。菊池寛の故郷、高松市には菊池寛通りがあり、ここに父帰るの銅像がある。このように「帰る」には何か悲しい響きが残る。帰ると言う言葉は微妙で、余り使いたくない。 

今日は第7回目となる「浪速学院 二十歳の集い~浪速に戻る」の日で、273人も集まってくれた。当初は単に“二十歳の集い”だけの名称だったが一昨年から私の強い思いから「浪速に戻る」と付け加えた。ここに意味があると考え、“戻る”を強調したかったからである。「浪速に帰る」も考えたが、ここはやはり「浪速に戻る」が正解と思った。日常生活で、 "帰る" というと菊池寛ではないが“ home” を意味し、家に帰る(帰宅)、故郷に帰る(帰郷)だ。これに対して家に"戻る"という場合、通常、一旦戻って、その後また外出する意味を含む。以下のような会話で考えれば分かり易い。学校で仕事が終わり、仲の良い独身同士のA先生とB先生が会話している場面だ。

 A: 「これからどうする?一杯飲みにでも行く?」

 B: 「僕は家に帰るよ。」

 A: 「そうだね。まだ明日も仕事だし。それじゃ、また明日。」

 B:「お疲れ様でした。」

これに対して:

 A: 「これからどうする?一杯飲みにでも行く?」

 B: 「僕は一旦家に戻らないいけない用事があるんだ。」

 A: 戻るって、その後、どこか出かけるの?」

 B: 「一旦家に戻って、お土産を持ち、親戚のところに行く用事があるんだ。」

 A: 「そうなんだ。忙しいな、あまり無理するなよ。じゃぁ、また明日。」

本校の卒業生が”落ちぶれ果てた姿”で母校に帰ってきてくれては当方も困る。母校に戻って旧師や同級生と旧交を温め、そして大学に戻って焦眉の急、就職活動をして貰わないといけない。あくまで浪速高校は通過点であり、通り道である。この学年は私が入学を許可し、卒業は今の飯田校長先生が卒業証書を渡した学年である。感慨一入のものがある。私は「ウエルカム・スピーチ」でぼつぼつ社会を広く俯瞰し考え方の幅を広げる必要があると述べ、「公の中に一生懸命に生きる」という重要さを強調した。可愛い教え子への恐らく最後になるかも知れない訓示である。立派な社会人となって社会の一隅で足元を照らすような人物になって欲しいと思う。その為には生涯勉強であり、その過程での「失敗から学べ!」と述べた。単に夢みるだけの大人になってはいけない。「我慢、忍耐、辛抱、そして努力に努力」こそが重要であると強調した。今私の目の前にいる20歳になった若者が本校卒業生の看板を背負ってどのようなこれからの人生を送ってくれるのかと思うと目頭が熱くなった。今日は弾けて笑いこけ、楽しそうにはしゃいでいる卒業生を見て「頑張れ、凹むな!我が教え子よ!」と心の中で叫んだ。










2024年1月26日金曜日

浪速高校、専併合計でも専願数でも応募数でトップの位置に!

 府公立中学校校長会は昨日の25日、この春に中学校を卒業予定の66504人の第二回目となる進路希望調査結果を発表した。今朝の朝刊各紙に詳細公表された。「公立特別選抜と私立高校の進路希望調査」である。データは1月16日時点だから些か古いがこのデータで府内私立高校への応募状況、専願者数値のレベルが分かるだけに私立側にとっては他との比較で留意しなければならない重要情報である。この調査によれば今春の私学専願は25.97%で17271人となっている。併願は53.85%で前年度から3.32ポイント下がっている。間違いなく府の施策である「高校授業料完全無償化の影響」だと考えて良いと思う。この流れが今後とも続くのか、現時点では断定できないが個人的には「授業料が無料なら私立に行こう」となる傾向は今後ともじわじわと続くのではと思っている。

 それだけに応募総数や専願の増えた私立学校は責任を持って教育活動を展開し、「期待に応えなければならない」。そういう意味で令和6年度入試は節目の年である。お蔭様で「浪速高校は専願+併願の応募総数でトップ」となった。史上初めての位置である。合計2186人で次の桃山学院さんが1766,大阪高校さんが1729,大産大付属さんが1690,四条畷学園さんが1618となっている。「専願数値で言えばこれも浪速高校は681人でトップ」、次いで興国さんが620、大産大付属さんが512,大阪学院大学付属さんが506、四条畷学園さんが473となっている。見る限り中堅校の応募が堅調であり、中高一貫の超進学校には影響は出ていないと考えて良い。本校にとっては有難い限りで今日も受験生が願書持参で「受験先を見ておくように」との中学校サイドの指導だと思うが多くの中学3年生が来てくれている。受験願書受付は今や90%が「WEB出願」であるが未だに「紙出願」もあり、WEBでも持参する生徒も居て事務室も入試広報部も細心の注意で間違いの無いように事務手続きをしている。本日私は視察した。 


中学入試が終わり、次に「高校入試の本格的到来」である。2月10日の本番までに今日のデータを見た受験生と保護者は公立か、私立か、受験先の学校の変更、併願から専願への切り替え等々色々と動きが加速するだろう。我々は「次の3回目の発表」を待っている。「一般公立高校の各校別応募状況」である。今年、公立は数校の募集定員を上げている。公立対私立の募集競争みたいに見えるが果たしてその動きはどのようになるのか?専願が大幅に増えた本校は併願戻りの数は減少すると統計的に考えているが果たして「併願戻り率」はどのようになるのか?極めて興味深い。又公立は定員をアップしているが、授業料無償化の私立選択に走ればその公立は定員割れし穴が空く。これが3年も続けばその公立学校は統廃合の対象になる。元々上げなくてもよいような学校の定員を上げる一方で、私立授業料完全無償化の施策となると本当に複雑で判断の難しい状況が生まれつつある。しかし公立も私立も生き延びるためには「良い教育を展開し、生徒に選んで貰えるような学校にする!」という根本命題がますます浮かび上がってきた。誠実に謙虚に今後とも頑張らねばならない。


2024年1月25日木曜日

巨星墜つ!

 

「巨星墜つ」という言葉があるが、私は今まさしくこのような感慨に浸っている。巨星落つとも書ける。偉大な人物がこの世を去ることを意味する表現であり、とにかく大きな業績を残した偉大な人物が死んだことを、哀惜の念を込めていう表現である。本日、学校法人清風学園の学園長平岡英信先生の「学園葬」が学校法人主催で行われた。まさに“巨星墜つ”である。主催者は葬儀委員長に和宗総本山四天王寺第114世管長「瀧藤尊淳猊下」で、故人とは永い年月のご友人であり、大阪の私立教育を引っ張って来た同志と言って良いかも知れない。喪主はご長男で清風中学校・高等学校の校長平岡宏一先生からのご案内であった。理事長の肩書がどこにも無かったが法的には現理事長の職にあるのは宏一先生であるが、父君への思いから敢えて理事長・校長の肩書を使わず校長のみとしたのだと瞬間に私は理解した。立派な行いだ。

平岡英信元理事長・現学園長先生は昨年末の12月16日、94歳で永眠され、既に親族で密葬の儀は済まされ、今日学校内の中央館「曼荼羅アリーナ」で学園葬を行うべく内外の故英信先生の知人やご関係の皆様に対し、立派なご案内状を出状されたものであろう。私は本当に良くご指導ご鞭撻を頂き、心からここに生前のご厚志を感謝申し上げご冥福をお祈りしたい。前職の府立高津高等学校の校長に就任し、近隣でもあり、最初にご挨拶に学校を訪問した時からだからもう20年のお付き合いになる。この時に「貴方みたいな民間企業でやられた人が府立の校長になっては、私共私立学校は有る面、恐怖ですよ」と笑われながら言われた事を今でも鮮明に思い出す。その後今の浪速学院に赴任した時にも具体的な近隣の私立の名前を出され、「戦々恐々」としているでしょうと先生らしいお言葉で激励して頂いた。

私は折に触れて先生の執務室をお訪ねしご意見を頂いた。英信先生は何時もご柔和なお顔きであり、ざっくばらんなお人柄,身体全体に透き通るような透明感があった。何時も恐らく高級であろうことが直ぐに分かる、香りの良い「紅茶」を出して頂いた。時には踏み込んで普段は聞けないような話まで教えて下さった。ダライ・ラマ猊下とも先生は親しく、清風学園にご来校の節は私に直接電話をかけてくださり、「紹介するから」と言われ、先生の執務室で記念の写真を撮って頂いたのも思い出である。又先生から「重罪を犯した死刑囚の教誨師の後援会」に入会して欲しいと言われ、今でも継続して会員になっている。先生は単に清風学園グループの今の教育活動の成果だけではなくて日本の体操競技界に果たし功績は後世に語り継がれるもので体操のオリンピック競技での金メダルは間違いなく平岡先生の燦然と輝くご功績の一つである。だから今日の学園葬も極めて多くの各界の人々が参列されていた。

 先生と最後にお会したのはお亡くなりになる1週間前の12月10日で、市内の有力な体操クラブの創立50周年祝賀会の時であった。その時も先生はお元気で親しくお話しした。先生はこの時も自分のお足で壇上に登り見事なお祝いのご挨拶をされていただけに突然の訃報に驚いた。御年94歳まで現役で大きな学校のトップを務められたのは、この間の精神力とそれを支えた強靭な身体がなせる結果であるが、その中軸には「教育への強い思い」があったからだと思う。真の意味で「本物の教育者」であった。私を含め、全国の平岡ファンは先生のご逝去を受け止め、精進していかねばならないと思った。私などは平岡英信先生から見れば「まだまだ子ども」であり、先生のお歳までまだ20年弱もある。頑張らねばならない。無位無冠の一介の私立学校の理事長の私であったが本日の学園葬では焼香時に早い段階で私の名前が読み上げられた。「平岡英信先生からの激励」と私は受け止めた。合掌。




2024年1月23日火曜日

「年寄りの冷や水」とは言われたくないから!

 「年寄りの冷や水」という言葉がある。老人が若いものの真似をし、冷えた水(又は湯冷ましで無い水、なお、「冷や水」は江戸期から明治にかけての嗜好品である「砂糖水」の別称であり、これを指した可能性もある)を飲んで腹をこわすことから、年寄りが、歳も弁えず若い者の真似をすると碌なことが無いという意味だ。自分はまだまだ若いと虚勢を張って若者と張り合ったのは良いが結局最後までは出来なかったたり諦めたりすると「年寄りの冷や水」と言われる。自らを失敗に追い込むような行為のことで同義語も多い。年寄りの自殺行為、無謀とか、飛んで火に入る夏の虫とかだ。年寄りの冷や水の言葉には酷い言葉ばかりで、誰も「歳なのに良くあそこまで頑張ったわね」などと優しい言葉はかけてくれないのが普通だ。恐らく蔭では「老人の跋扈」とも言われているに違いない。

私は今年から今日の「耐寒行事」である「葛城古道を完全踏破」のトレッキングに参加することを諦めた。残念でならないが諦めた。昨年の同時期の「山之辺の道完全踏破」で私は歩きながら「ぼつぼつこの行事からは引退時期かな」と悟ったからである。全行程16キロの最後5キロで本当に「くたくた」に消耗した。初めての経験であった。桜井市の大神神社から天理市の石上神宮までであったが最後の3キロは自分で涙が出るくらいフラフラになっていた。この時に「もう17,18歳の生徒と共に歩くのは限界かな」と感じたのである。従って今年から止めたのである。万が一途中でギブアップし先生方へ迷惑をかけてはならないし、何時も元気な理事長を見せつけている生徒に幻滅を与えてはならないと感じたからである。年寄りの冷や水と言われたくはない。


 毎日、毎日の授業を受け持つ教員と違って学校という職場は「管理職」になると生徒との直接的な触れ合いは激減する。逆に学校の管理職は直接的に向き合う相手が生徒から教員になると言っても過言ではない。私みたいな理事長や学院長などの組織のトップの職責にある者は生徒との触れ合いは月度一回の「学院長講話」でしかない。それもマイクを通して語るだけだ。だから私は校長兼務の時代も今も修学旅行や耐寒行事などには「生徒に混じって行動する」ことを最優先にしてきた。この重要さや楽しみを深く知っているからだ。以下の写真は昨年のものだが本当に生徒は可愛い。男子生徒も女子生徒も私に声をかけてくれ、スマホでのショットを求められたりして、非定常な一日であるが、それが実に気持ちが良いし、頑張らねばならないと自分を鼓舞出来る。しかし昨年、私の如き年寄りは若者の中で若さを取り戻せるが、それも限界がある事を知った。


しかしせめて今日の耐寒訓練に生徒に付き添う先生方を激励することは出来ると早朝、学校車で出発場所である葛城市の忍海駅に走らせた。本校の教員は平均年齢が38歳と若く、皆さん溌溂として生徒の到着を待っていた。高一、高二の総勢1738人の生徒と教員98人が今日は古道にある由緒ある神社を巡りながら歩くのである。私は先生方に対してこの年に一回、交互に行う「山之辺の道」「葛城古道」に至った経緯を話し、先生方も久し振りの非定常を楽しみながら良い一日となるようにと述べ、学校に戻ったのである。車の中で足腰は弱ったが「まだまだ頭と心は若い者は負けない」と自負しながら、「引退はまだまだ早い」と自分に言い聞かせた。




2024年1月22日月曜日

浪速も難波も共に「なにわ」です!

 浪速中学校入試がほぼ終わり、今日からは「浪速高等学校の願書受付」が始まった。入学試験は2月10日で願書受付は30日まで続く。事前に把握している出願の数は何と昨年を大幅に上回り、2300余りで新記録となりそうである。有難い限りであり私はこの人気にうぬぼれてはならず、今日の出願受付も「受験生には丁寧に優しく応対」するように指導した。受付対応は事務室の職員と高校3年生の学年団である。約2300の出願であるが内2600余りは「WEB出願」である。一昔前までは「紙出願」であったが、ここにも時代の趨勢を感じる。 


学校法人浪速学院、浪速中学校、浪速高等学校の冠にある「浪速」であるが私は特別にこの浪速という漢字に愛着を有しており、「誇り高い」と感じている。読みは「なにわ」である。この“なにわ”の語源は浪が速い(なみはや)が訛ったという説や魚(な)が取れた庭という説があるらしい。遠い昔、瀬戸内海の東端にあった「なにわ」には倭国王の王宮が建ち大陸から技術や文化が伝わってきた。大陸からの渡来の人々はこの地を波が速く船の航行が難しいと言う意味で「浪速」とか「難波」という漢字を充てたと言う。難波と言う漢字も当初は「なにわ」だったのである。古事記には浪速の字が日本書紀には難波とあり、共に読みは“なにわ”である。飛鳥時代から150年続いた「なにわのみや」は「難波宮」なのである。その難波が今や「なんば」となった、「なんでやねん?」

 本日は重要な3人のお客様があった。千早赤阪村のお方で内お二人は共に姓のイニシャルはKさんである。個人的にも親しいご友人でもある。もう一人の方は浪速中学校の付属施設であるイチゴ園の管理をして下さっているSさんが帯同し、私の方から「学校見学の正式招待」のお声をお掛けした。多聞イチゴ園・果樹園・農園の土地を我々に売却して下さり、又中学生が校外活動でこの地に来たときには大型バスの駐車場としてKさんの土地を貸して頂くなど、何かにつけ学校はお世話になっている。私は広い意味でこのご3人は浪速ファミリーの方々だと思っており一度学校をゆっくりと見て頂きたく、この日が実現した。昼食を挟み楽しい歓談は続いた。「朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや」である。

 

今日は月度一回の学校医ご出席の下、安全衛生保健委員会と引き続いての校務運営会議があった。順調に新年のスタートを切っており、様々な事が確認された。課題は多いがこのメンバーなら必ず大きなテーマでも乗り切って行けると私は顔ぶれを見て強く感じた。「更なる改革推進の為に思い切った経営資源の投入は惜しまない」と私は覚悟した。次なる大きな課題は新校舎が来春には竣工する「浪速中学校の更なる前進」である。


2024年1月20日土曜日

新中学1年生予備登校

 


朝方、小雨がありましたが午後には上がり、静かな土曜日となりました。高校では午後に国際交流推進チームの企画で初めてNOVAさんによる「英語の特別レッスン」があり理事長・学院長先生は教室に視察に行かれ、フランス、イギリス、オーストラリアの先生方から特訓を受けている生徒の熱心な様子に感心されていました。2学期以降の土曜日の使い方について参考になると話されていました。



その後に2時から始まった先に合格され浪速中学校への入学の決まった生徒さんが保護者と第一回目の登校日でまず「制服採寸」の状況を視察されました。弾けた笑顔の児童とお母さん方に「おめでとう、部活は何を?」と声を掛けられていました。その後全員揃っての入学証明書や定期券の購入等の説明会があります。中学校は新年度が今日から始まった感じです。(K

2024年1月19日金曜日

「記紀」と開校100周年正史

 これはもう歴史書というより文学書と言っても良いと私は勝手な判断をしているが、歴史書の中で「記紀」という言葉がある。最古の歴史書と言われる古事記の記と10年後に完成された日本書紀の紀を合わせて記紀と呼ぶ。言ってみれば古事記は肩肘の張らない「言い伝えみたいな話を万葉仮名で編纂した書物」であり、これに対して日本書紀は「正史」とも言うべき当時の朝廷が漢字で編纂した書物である。幾分異なる内容が有るが大体同じようなストーリーで古代日本の創成期から41代持統天皇までの世紀を後世の為に残してくれている。この記紀のお陰で我々は「自分の国のはるか昔」を知る事が出来る。今本校は正史ともいうべき「開校100周年記念誌・・浪速書紀」を詳細に纏めている。担当は指導教諭のY先生と総務部長のI先生だ。どちらも国語の先生で「打って付け」と言える。 

昨年の4月30日、開校100周年奉祝祭当日にご来賓の皆さまにご披露しお持ちかえり頂いたのは「夢の軌跡」と「学院創立に携わった人々へ感謝の誠を捧ぐ」であり、これらはいわば前哨戦としての「古事記的」な冊子である。しかしこの古事記には当日の3式典である奉祝祭、記念式典、祝賀会に関する記事は全く含まれていないから100年目の高ぶった臨場感あふれる記述は当然無かった。この為に時期をずらして全てを包含した「正史」を纏めるようにしたのである。夢の軌跡に記述されている方々ではなくて、この時代を共に生きた新旧の教職員や関係深い協力会社の方々などの「生の声」や激動の世界史と組み合わせ、多くの記事を収録し後世に伝えるのである。最終編纂はまだだがVol:1とVol :2の2分冊に分かれ写真を多用し3月末1000部発刊の予定で進んでいる。費用は結構な値段となったが必ずこの正史は後世の人々のお役に立つと信じている。 



担当の二人の教師は「言葉数は決して多くないが、こつこつと仕事を進める有能な先生」であり、私は信頼して任せている。学校設置者である理事会を総理する理事長の指示を受けて、自分たちの知恵を出し、一生懸命に纏めてくれている姿に私は心を打たれる。開校100周年当日から8カ月、自分たちの本来の業務をこなしながらの仕事であるから大変だったと思うが今朝の進捗報告を受けた時に「編纂後記」として自分の名前を入れ、仕事を終えるように申し上げた。必ず良い物が出来ると思う。原稿を寄せてくれえた人々や大口のご寄付をして頂いた方々又ご関係の方々にこの100周年正史を贈呈して100周年関連の全ての業務は終了する。 


このように素晴らしい教員を有している私は幸せ者だ。ところで17日の各紙は奈良教育大付属の小学校教員が「校長以上に実権を握り」、学習指導要領を軽視した法令違反の課程や不適切授業を長い間行っていたと言う。しかしこれは確かに思い上がったベテランと言われる教師の資質の問題であるが、私は「校長にも大きな問題がある」と思う。法令違反を是正する権限があるにも関わらず放置した校長こそ罪は重い。国立の小学校の教員は国家公務員であり、国立の教員は元来我々のお手本となるべきだが、このように日本の教育現場では未だ社会の人々が見えていない暗い闇がある。記事の中に「言うなれば私立校のような状況に陥っていた」との学校関係者のコメントがあったが、これには「カチン!」と来た。私立校は閉鎖的ではないし、法令違反は無い。大体校長が教員を指導できないような私立校は有り得ないし、もしそうならそのような私立学校はすぐに潰れるだろう。私立は「親方日の丸」ではない。