2022年4月30日土曜日

浪速100年アーカイブ②100年前に本校が誕生した当時の状況

 4月25日のアラウンドにアップした「浪速100年アーカイブ①」で書いたように旧制浪速中学校は大正12年(1923)4月30日に入学生204名でとにもかくにも出発した。99年前の本日である。しかし校長も校舎も間に合わず高野線の我孫子駅と沢ノ町駅の中間付近の墨江村の元工場の空建屋を使ってスタートしたことは前号に詳述した。私の疑問は何故校舎が間に合わないほど急いで開校したのだろうか、そこである。中学校の設置出願が大正12年2月28日、設置の認可が3月31日、大阪府から大島鎮治教育主事を「校長事務取扱」でお迎えしたのが4月17日、そして沢之町の仮校舎での入学式が4月30日だから新幹線以上のスピードで走っていたのが容易に想像出来る。いかにもバタバタした感じである。 

当然数年前から中等学校設立構想はあった筈であり、学校建設の話が急に出て来る訳もない。今となっては当時の詳細な状況を知る由も無いが私はある文献や関係書類を探し出し調べてみると、当時の「社会全体の教育振興機運」みたいなものを強く感じた。「何故、浪速中等学校はこの地に誕生したのか」をまずまとめておかねばならない。長い鎖国の夢から覚めた我々の祖先は江戸時代から明治への「ご一新」を合言葉に新しい国つくりを目指した。富国強兵を図り、欧米列強に肩をならべるべく「坂の上の雲」に向かって走り出した。勢い国民の間には「欧化万能」の風潮が生じたのは止むを得ないことでもあったろう。とかく日本人は流れに乗り易い国民性を有している。 

当然このような社会風潮に対して当然「日本人の道統を再認識」すべきと機運が生じてきたのも当然の流れである。「日本は日本であり日本人は日本の歴史を忘れるな」ということであろう。このように必ず「反動」と言う流れは起きることが自然であり、このことは現代社会とて変わりはない。そのような人々は国民に対する教育の重要さを考え明治天皇に、明治23年10月「教育勅語の煥発」を仰いで「日本人の道義の指針」を見ることになった。話は変わるが例の「森友問題」の時にこの教育勅語が一時的に話題となったが、教育勅語が悪いわけではない。有る部分では精神的に回帰すべきという意見に私も賛成だ。 

かかる時運の時に、同年今の国学院大學の前身である「国学院」と今の皇學館大學の前身の「皇學館」が明治天皇の親王の令達のもとに設置された。こうした流れの中で明治15年誕生した「皇典研究所大阪分所」は明治41年に「大阪国学院」と名称を発展的に改称し、今日に続く。日清日露の戦争に勝利し、1914年に始まった第一次世界対戦にも参戦した我が国は戦勝国の一員として経済的にも恵まれた環境となり世の中には軽佻浮薄の風が一斉を風靡したと書く識者も多い。良い表現を使えば「大正ロマン」と騒がれた時代に大阪国学院は浪速中学校を誕生させてくれたのである。これが99年間、今に続き我々はここで働いている。言わば大阪国学院は我々の学校の「生みの親」であり、今後ともこの関係が切れることはない。本校は未来永劫、神社神道を建学の精神に持つ私立学校なのである


 
私は貴重な文献を見つけた。「30周年記念誌」であるが、その中の初代事務取扱の大島鎮治氏の記事で全てが分かる。本校が誕生した大正12年当時、大阪府は五ヵ年計画を策定し「中学校大拡張時代」に備えることにしたのである。私の前任校で今の府立高津高校も前身は大正7年に出来た旧制高津中学校なのである。とにかく「明治末期から大正にかけて旧制中学校はどんどん出来ていった。」そのような時代背景の中で神職養成機関でもあった大阪国学院は「ちゃんとした私立中学校を作ろう」と判断されたのである。直接的には日本人の道統を再認識するという明治以来の機運が引き金になり、第二はここが立派なのであるが進学を志ながら不幸にして家庭の事情で進学し得ない児童等を救うと言う社会的要請に応えんとした大阪神社界の人々の宗教的動機もあったと50年誌に明確に書いてある。

 


2022年4月28日木曜日

今日は「遠足」の日

 今日は「校外学習」の日であった。少し世代が前の人々には「遠足」と言った方が分かり易いだろう。本校では何時もこの時期に実施している。4月初めに入学し、少し学校に慣れ、友達も出来始めたこの時期を選んでやっている。過年度の生徒も「ここで一服」と言う感じで久々に学校を出て、社会を見ながら友情を育むという訳だ。中学校、高等学校同時実行だから今日は全ての先生と生徒は一人もおらず、校内にいるのは事務室勤務の人々と理事長だけである。このような雰囲気に浸れるのは今日だけで何となく「心地良い」。意図を以って中学校は学校出発で高校生は現地集合としている。 

行先は中1が神戸布引ハーブ園とその周辺、中2が伊賀の里モクモク手作りファーム、中3が徳島県鳴門市の大塚国際美術館である。生徒の着ている洋服も考えており、中1と中2は体操服着用とし、中3は制服である。美術館に行くのに体操服もなかろうという訳だ。高校生は高1が「古都奈良で遊ぶSDGs」、高2が「千年都市京都を訪ね、その歴史に触れる」、高3は由緒正しい神社を巡り、自然あふれる道を抜け、異国情緒に触れる」をキャッチコピーとし高校生には幾分かのテーマを与えた遠足となっている。当然高校生は「私服」を許可している。前に付き添ったことがあるが、それはまぁ個性あふれる洋服を着て高校生はやってくる。 


ところで大阪私学中学校高等学校連合会(大阪中高連)は一昨日4月1日の府内私立中高の令和4年度の入学者数を正式に発表した。何時も連休前であり我々はこの日を待っていた。入試広報部はこれらの数値を整理し府内私学の実情を把握し、伸びたところ、下がったところなどから今後の作戦に活かすのである。私はこれらのデータを見て「如何にも教育界は保守的」と感慨を改めてするのだ。高校で96校、中学で60校の入学者数は「なだらかなカーブ」で変曲点などは存在しない。確かに順位の入れ替わりは有るが、それらも良く良く観れば「元に復帰した」と捉えられる。入者数を増やすと言う事は本当に難しく、受験生や保護者の行動変化に至らしめるのは時間と努力が必要なのである。

 私立高校でトップ順に書けば、近大付属1033人、興国938人、箕面自由学園879人、浪速878人、大阪高校765人がトップ5である。私立中学で言えば清風335人、近大付属303人、開明300人、清風南海277人、四天王寺275人がトップ5であった。浪速中学は133人で全60校中23番目であった。昨年が21位だったから微減である。平成29年以後で観ると29位、28位、28位、22位、21位そして今年が23位だから更に上を目指す岩盤は固いと言う事を示している。しかし新体制となった入試広報部中学募集グループは創立100年となる来年度入試では何らかの答えを出してくれるだろう。大いに期待している。

2022年4月27日水曜日

空手道部 全国大会でぶっちぎり優勝

 空手道部が通称「春の選抜大会」と言われている「第41回全国高等学校空手道選抜大会」にて「男子団体組手で優勝」した。2連覇である。決勝戦は強豪中の強豪で宿命のライバルである東京都の世田谷学園高等学校を30で打ち破った。5人戦で最後の副将戦と大将戦を残しての勝ちだから「圧勝」と言える。準決勝は対京都外大西高等学校(京都府)にも30で勝ち、五回戦、対御殿場西高等学校(静岡県)に31勝ち、四回戦、対東福岡高等学校(福岡県)に32勝ち、三回戦、対青森明の星高等学校(青森県)30勝ち、二回戦、対松商学園高等学校(長野県)に41勝ち、一回戦、対明徳義塾高等学校(高知県)に50 勝ちだから東北、中央、近畿、九州、四国の名だたる強豪を撃破しての文句なしの優勝であった。 

形競技でも団体優勝(3連覇)、個人組手でも優勝者が出て、またまた「空手の浪速」の名が全国に響き渡ったと言える。私がこの学校に着任して仕事をし始めたのが平成19年4月、直ぐに学校改革に着手し、最初の成果が平成22年完成の「浪速武道館」竣功であった。とにかく「成果は目に見える物、形」が重要だった。この中に「空手道場“練武館”」がある。この年、東日本大震災で大会は中止となったが、その後は堰を切ったように空手道部は躍進した。練習場だけではなく、本校保健体育科教諭で空手道部顧問の今井謙一(東京オリンピックコーチ)先生という指導者を得て平成23年以降の11年間で全国優勝は実に7回に及ぶ。怒涛の如く突き進んだ、まさに「栄光の歴史」と言える。 


私はこのような背景から全空連から「名誉4段」の允許を戴いている。昨日はこの時に誂えた道着を着て練武館にて空手道部の部員達に理事長・学院長としての「存念」を時間をかけて述べた。一種の指導である。趣旨は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。全国優勝の常連校だと言わることで、知らず、知らず尊大になり謙虚でなくなり、それは日常学校生活態度にも出てくるものだ。他校は「打倒、浪速」で推し向かってくる。周囲からの視線もますます厳しくなってくる等を静かに話して聞かせ、夏の本番「全国大会優勝」に向けて顧問と部員全員に「精進せよ!」と檄を飛ばしたのである。その後全員で学院神社の大神様の御霊をお祀りしている神棚に参拝した。最後に高校部員はオフだったので代表中学部員と「試合形式で手合わせ」をしたが、当然敗れた。それにしても執務室から武道館までの往復を道着で歩いたから周辺の生徒は見慣れぬ理事長の道着姿に歓声を上げては「やいのやいの」とはやし立てられた。これには参った。
 

4月11日のアラウンド「水平飛行」に書いた3月29日の吹奏楽部の第13回定期演奏会が見事に終わったことの「お祝い」にここ数年では大体恒例となってきている「新たな楽器プレゼント贈呈式」が本日あった。顧問、部員の希望通り「ユーフォニアム2台」「チューバ」「ストリングベース」「コンサートシロフォン」の4種類の楽器を購入した。合計金額は300万円程度であったが、部員が頑張っており、法人が対応できる資金体力がある限り、今後とも応援してやりたいと思う。「貰う方より与える方が嬉しい」ものだ。こういう機会を得てこそ「理事長冥利」に尽きる。生徒の喜ぶ顔は私を元気にさせる特効薬である。それにしても部員数が多くなった。部長生徒の謝辞も感激であった。まだ当分理事長は辞められそうもない。






 

2022年4月26日火曜日

全教職員に特別祝い金を支給

 今日は朝8時20分に「臨時朝礼」を持った。連休前が良かろうとの判断だ。この席で私は昨日のアラウンドで触れたように全教職員に対して51日(実際は430日)の「開校記念日」についてその歴史について簡単に言及した。本校で勤務している人々が、瞬時でも良いから今自分たちが両の脚で立っているこの場所で働くことが出来る喜び、生活の糧を得て、家族を養い、社会に貢献できている幸せ、そして丁度今から99年前に校舎も無い中で「旧制浪速中学校、現在の浪速高等学校を創立」してくれた先人が居ればこそ「今の私たちがある」との感謝の気持ちを感じる日が5月1日であると言う事だ。これが開校記念日、創立記念日等を祝日にしている意義である。この当たり前の事が、まさしく「敬神崇祖」神社神道のスピリッツである。「あぁ5月1日は休みなんだ!」と喜ぶだけの日ではないと言う事である。


私は連休前の今日の日に名簿にある教職員170人の人々に「特別祝い金」を支給する旨のアナウンスを行った。4月1日に新しく着任してくれた新任の先生方の歓迎会を含めた会食会を今年もコロナ禍の中で止むなく中止としたのでその費用の一部を「現金で支給」することにしたのである。恥ずかしいような金額だが先生方がこのゴールデンウィークを少しでも優雅に過ごして頂くための一助であり激励の意味を込めた。そして今このようにゆとりと充実感があるのは入試広報部が頑張ってくれて高校で878人、中学で133人、合計1011人と言う数の入学者を得たからであると感謝の言葉を述べ部員には祝い金を上乗せし、又4月1日に正式に専任教諭、浪速丸の正式クルーメンバーとなった教職員に「生涯に亘って浪速の為に頑張って欲しい」旨の激励を込めて金額の上乗せを行った。 


その後「法人朝会」があった。今日の話題は「授業料未納者」の数であった。どういうわけか本校では未納者が信じられないくらい少ないのである。だからその昔大阪府から「何でそんなに良いのですか?」と聞き取り調査に来られたり、育英団体からも来られたりしたことがあった。現在総勢2650人を超えて生徒を抱えている大規模校だが、正直未納者はたった一人であり、我々はその経緯をしっかりとつかんでいる。今朝、私は常務理事や事務長に言った。「これはやはり良い学校の証明の一つだと思う」と。良い教育を展開し、生徒の面倒見の良い学校は当然、授業料の未納者は少なくなるのだと思う。良い話であり私は改めて気分が良くなった。授業料を頂いている責任者として責務は重たいことを自分に言い聞かせた。

 その後高校1年生のオリエンテーションとして多聞尚学館や美原区の「高天原スポーツキャンパス」などの校外教育施設の見学に第6班が出掛けるのを見送った。明日の7班で最後であるが大型バス3台ずつ、掛ける7回で21台のバス手配となった。これだけで1年生だから全高校生を何処かに行かせるとなってもまずバスの手配54台、駐車場が問題となってくるのである。しかしこのような問題は問題でも何でもない。生徒が多い方が学校はますます良くなるのだと私は信じて疑わない。しかし見送った両校長先生と話したのだがバスの中で我々に手を振って歓声を上げてくれるのはすべて女生徒である。実に「女生徒は明るくて元気がある」、素晴らしい。これに比べ男子生徒はおとなしい、おとなしすぎる感じだ。過去新記録となった女生徒比率は学校全体に大きな影響を与えつつあることを今朝も又実感した。


2022年4月25日月曜日

浪速100年アーカイブ① 「校舎も無く、校長も居なかった旧制浪速中学校 第1回入学式」

 今から丁度99年前に遡り、かつプラス5日前は「大正12年(1923)4月30日」になる。言い換えればその日は令和4年4月25日であり今日の日だ。くどくどと書いたが本校は来年の「令和5年4月30日に創立100年周年」を迎える。その日、「旧制浪速中等学校は第一回目の入学式」が挙行された。学校行事の関係で5月1日を「開校記念日」と称しているが実際はその前日の4月30日が社会一般でいうところの創立記念日である。この日生徒数204名で浪速中学校は出発した。今年の新制浪速中学校の入学者数は133人だから開校時よりも今は少ない。とにもかくにも今日はこの日から99年と1週間前である。生徒募集は府庁で行い、入学試験は「天王寺師範学校」で行ったとある。試験問題が残っていれば面白いのだが、今はそれを探す術さえない。 

「校舎が間に合わず」、結局今の高野線我孫子駅と沢之町の中間西側の「元工場の建屋」を借りて「東成郡墨江村仮校舎」と銘打って204名の生徒で「浪速中等学校は出発」した。着任当初、私はこの地域の古い図面でこの仮校舎の址を探して歩いたがその面影は当然のことながら何処にもなかった。添付の古い写真を見ると他には建物など何もなく南海の高野線の電車が後ろを走っている。今からおよそ99年前の写真である。今日も周辺を歩いてみた。恐らく現在の墨江幼稚園、墨江小学校辺りではないかと今回は想像した。「今は昔」、今後このアラウンドにて時折「浪速今昔物語」を語ることにして開校100年を寿ぎたいと思う。 



学校の起点は「創基」と言うのだが、本校の創基は明治15年11月4日に開設された「皇典研究所大阪分所」がスタートした時機を取るという考え方も納得できる話である。さすれば本校は創基140年、創立100年という事になろうか!古い伝統ある私学である。ちなみにこの年、明治15年、明治天皇は児童生徒に日本の道徳を明らかにして「幼学綱要」を命じ、まとめられて、これが明治23年の「教育勅語」の煥発に繋がった。明治維新を成し遂げ我国は前途洋洋「坂の上の雲」の時代であった。皇典研究所は明治41年に発展的に「大阪国学院」に名称変更し、夕陽丘に校舎を定めて「神職の養成機関」であると同時に「神道精神鼓吹の場」として今日まで存続してきている。現在の大阪国学院は本町の大阪府神社庁ビル内に移転している。その大阪国学院が大正12年教育振興の松明を掲げて本校を設立した。大阪国学院はまさに本校の「生みの親」なのである。

 校舎も無かったが「校長先生も居なかった入学式」である。実は大正12年2月28日、設立者、大阪国学院は中等学校の設置を出願した。そして驚くのは一ヵ月後の3月31日に「設立が正式に認可」されている。4月17日に大阪府から教育主事であった大島鎮冶氏が「校長事務取扱」として着任され、2週間後の4月30日に入学式が挙行された。古い写真で見る限り教職員はわずか8人であった。正式の初代校長は1年後にご着任されている。開校100年を1年後に控え、私は3月の年度末理事会で「浪速中学校の新校舎を建設する」ことを宣言し決議された。旧制浪速中学校、新制浪速中学校の100年の歴史を想い、新校舎を建設し新たなる100年の狼煙を上げる。現在製作中であるが、全校生徒、教職員、保護者が今年1年胸に輝く「浪速100年バッジ」を付けて、100年の学校という伝統を誇りに「浪速教育」を更に高めて行く。

 



 

2022年4月18日月曜日

閑話休題「井戸茶碗」

 今週は全校生徒の健康診断が21日と22日の二日間にわたって行われる。何しろ2650名を超える数だから大変だ。中1高1と中2中3高2高3の2グループに分けて、それも午前と午後の時差登校で実施する。完全なマニュアルが整備されており全く問題は無い。医師だけで耳鼻科、眼科、歯科、内科は男女別のドクターで総勢20人のお医者さんが入って下さる。このように学校は授業をしながら法的に決められている事をやらねばならないが、教職員の頑張りで粛々と安定して進んでおり、今週は私も時間が取れて、明日から健康診断の為に暫しのお休みを頂いた。 

ここで「閑話休題」として・・・。”それはさておき、ともかく”など、話が横道にそれたのを本筋に戻すときにいう語である。「閑話」は暇にまかせてする「無駄話」のことであり、「休題」は話すことをやめることだ。今日のアラウンドは暇ゆえの「余話」であると言っても良い。要するに理事長としての公務に関する事とは関係ない「こぼればなし」の類である。余聞、余録、逸話、裏話、楽屋話、内輪話、打ち明け話、内緒話、自慢話に相当するものだ。私は40年間、陶芸をやってきたが、教育界に転じて、公務に集中する余り「作陶」から遠ざかっていた。その期間は凡そ15年間に及ぶ。 


ところが人間とは摩訶不思議なもので昨年あたりから急激に意欲が湧き始め、再度、粘土と格闘するようになった。まず復活の象徴として「オカリナ」作りに挑戦した。「全く知らない対象に挑んでこその自分」である。世の中には殆どのオカリナは素焼きであるが私は「本焼き」のオカリナに挑戦し、ようやく目途が付いた。長い陶芸活動の休止時間のリハビリテーションになった。そして今心の内には「茶陶」としての「井戸茶碗」が大きく膨らんできている。井戸茶碗は16世紀の李朝時代前期に製作された「高麗茶碗」である。製作地は慶尚南道、儒教が国教であった朝鮮半島では手工業は蔑視され、雑器として全く評価されていなかった当時、日本の茶人に好まれた茶碗で「一井戸 二楽 三唐津」と言われた程の名器として日本で日の目を浴びたが、朝鮮半島の製作者らの名は歴史に消えて残っていない。 


井戸という名称の由来は諸説あり定かではないが、一説に、文禄・慶長の役の際に井戸覚弘が持ち帰ったともいうが、それ以前から日本に「井戸茶碗」の名称はあったという文献もある。日本の文献に高麗茶碗が登場する初見は1537年(天文6)であり、茶の湯が唐物(からもの)中心の時代から「わび茶」へと移っていくその初期にあたっており、この美意識にふさわしい茶碗の王座を井戸茶碗が占めている。桃山時代、利休の一番弟子と言われる「山上宗二記」には「井戸茶碗、是(これ)天下一ノ高麗茶碗」と書かれている。井戸茶碗はやや柔らかい陶胎であり、元来は青磁系の焼物に属し、長石質の白色透明性の高火釉(ゆう)が施された「椀(わん)形の茶碗」で、素地(きじ)は黄褐色、枇杷色を呈している。 



現代では山口県の「萩焼」が主流である。その作風によって、「大井戸、古(小)井戸、青井戸、井戸脇(わき)、小貫入(こがんにゅう)」などに分類されており、多くの名品が残されている。代表する大井戸をみると、竹の節状の大きめな高台(こうだい)、高台脇の力強い削りあと、ゆったりと曲線を描く椀形の姿、枇杷(びわ)色の釉色(ゆうしょく)に特色がある。私は今から45年くらい前に井戸茶碗の国宝「喜左衛門」を東京の国立博物館で観覧し、その時に見た瞬間、身体が緊張するくらい震えた記憶がある。何故か今その井戸茶碗に再度取り憑かれているのである。 


私は今陶芸復活の為に設えた千早赤阪村の工房に足しげく通ってこの喜左衛門井戸の「写し」を作りたくて悪戦苦闘している。まず本物を見てそれを再現する「真似事」から出発し、そして究極は「木村井戸」を学校茶道部に残したいと思う。お茶人、垂涎の井戸茶碗をこの手で作陶し、生がけで白化粧して素焼きし、釉薬をかけて本焼きをする。その為に粘土は山口県の「大道土」、それに「見島土」、加えて「萩砂」と「朝鮮カオリン」を入手した。今は釉薬を検討している。あらゆる文献から高麗井戸茶碗の成分は判明しており、まず忠実に再現できるかどうかである。「忙中閑あり」、時間を探し出しては学校界に転職する以前の焼き物作りにのめり込んでいた時代の自分に今、戻りつつある。この意欲が逆に浪速学院への更なる進化発展への熱情を高めるのである。何か良い茶碗が造れそうな気がする。




2022年4月16日土曜日

文化部発表会 共学の学校を痛感

 朝、「拡大管理職会議」を開いて直近で起きた様々な校内事案、事象に関して情報の共有と管理職として有るべき対応について私の「思うところ」を明確に述べた。何時もこのようにしている。何か起きるたびに直ぐ招集をかける。この学校法人は理事長たる私と浪速高等学校、浪速中学校の両校長に拠って存在し、日常の業務が進展して行く。従ってこの3人が責任者で私が最終責任者ということになる。何故、敢えてこのような事を書くかと言えば「組織として指示したものが責任を取る」という極々当たり前のことを、敢えて管理職や管理補佐職に指導をしているのである。部下に指示し指導し成果を上げることが管理職の仕事である。 

逆に言えば校長として教員に「仕事の指示や指導をしているか?」という問いである。これが無いようでは校長の存在価値は無い。教員も校長の発する一言は「職務命令」と捉えた方が良い。特に校長の視点として重要なものは「校長の仕事と責任は最後の最後まで生徒を護る」と言う点に尽きる。だから校長には「生徒への懲戒権」があるのである。この伝家の宝刀をかざすのは最後の最後であるという意識は不動のもので決して校長が教員に思寝たりしてはならないということだ。教員と校長は、たとえ教員出身の校長でも全く別の存在であると言うことを分かって欲しいと思う。 

今日は「令和4年度文化部発表会の日」であった。2年前まではミニ発表会として昼休みの時間を取った位の短いものであったが、部も増えてきて現文化部長の方法で今のような本格的なものになった。この先生は音楽の教師であり文化部への思いは強いし、企画力や指導力、推進力は折り紙付きだ。新入生へのオリエンテーションであるが、文化部は運動部に比べ、幾分地味であり、勝った、負けたの派手さもない。生徒の中には「どうも運動は苦手」と言うものもいるし、そのような生徒には上級生が今日、全力でPRする文化部のどれかに入って欲しいと強く思っている。クラブ活動の効果は教育活動を進めるうえで大きな効果を上げることを我々は知っている。



 今日は土曜日であるが2限~4限までを使って行うがライブ会場は体育館でそこから実況中継によって全66教室にリモートにより配信される。とにかく仕掛けが「大がかり」であり、これが出来るのも「全館ネットワーク環境が整備」されているからである。本校には25の文化クラブがあるが今日の参加クラブは軽音楽・神楽・雅楽・ダンス・合唱・吹奏楽・津軽三味線・化学・鉄道研究・書道・新聞・華道・茶道・パソコン・放送・写真部と16クラブに亘る。プログラムは中学生徒会長の開会宣言に始まりその後高校校長の挨拶である。最後の締めは高校自治会長の閉会宣言と中学校校長の挨拶で終わるというオールスターの催しものである。


特筆すべきはビデオ撮影から放送、司会、進行まで全てが生徒の手によってなされることである。各部にはそれぞれ時間が与えられ冒頭は女生徒部員が多くいる「津軽三味線部の津軽じょんから」から始まった。私は自室のテレビで仕事をしながら見たり、会場に行ったりしたがとにかく女生徒の多さを実感した。特に文化部は女生徒が活躍できる場所なのである。女性の活躍する学校に本校も育ってきた。遂に16年で本格的な共学校になったと思えば、実に感慨深い。この文化部発表会は今後とも重要な学校行事として進化発展させて貰いたいと思う。
                       


          

                                                                          

2022年4月14日木曜日

人生いろいろ、先生も色々

今日は新しく専任教諭に採用された3人の教員から「1年間の研修報告会」と引き続いて「職員会議」があった。これらに言及する前に高校校長から報告を受けた直近で起きた事案を書くとしよう。今年41日に採用した常勤講師の人だ。敢えて教科とか男性、女性とかは書かない。又この人を先生とも呼ばない。正直私自身お顔も思い出せないし、「フー?」って感じだ。この人、校長に「私、辞めます!」。先週末の事だ。突然の事で驚いた校長は時間をかけて理由を聞き説得をした。週末を挟んで月曜日、この人は登校して来なかった。当然校長は電話連絡を入れて、再度説得と同時に「社会人としての常識ある振る舞い」を諭したという。 


火曜日登校して来たこの人は「自己都合で退職」との通知書を持参して直ぐに学校を後にした。この事案は歴代2番目の早期退職である。1213年前に同じような事があったがこれは41日の採用で着任式の後、1回だけ登校してきてそれ以来顔を見せることは無かった。今回の理由は「一人で仕事をできる環境を望んでいた、研究みたいな仕事が向いているかも?」とか訳の分からない理由だと思うがそんなことはもうどうでも良い。私は校長の措置を了として、至急代わりの教員を探すよう指示した。早速、昨日面談して良い人材が取れたと校長が喜んで報告に来た。しかし大いに迷惑を受けた。社会人として信じられない所業である。「何で応募してきたの?」

 時々このような事例がある。聞いてみると他校でも同じような事があるらしい。学校の教壇に立つと言う格好だけの「自分勝手なイメージを描いて」来たが、現実を目の当たりにすると、先行きに不安感だけが募り、「逃げ出したくなる」のである。「目の前のこと」「知らないことを楽しもう」と出来ないのである。世の中にはせっかく目の前においしそうな食事があるのに、いろいろ考えて楽しめない人がいる。「もっと別の選択肢があったかもしれない」「これを食べるとカロリーが気になる」など、食事にまつわる後悔や心配をしたり、まったく関係のない仕事のことを考えて集中できなかったりすると、もうアウトである。

 私が良く使う言葉に「今を生きる」という言葉があるが、一見難しいように聞こえるが要するに目の前のことを純粋に楽しめるかどうかの余裕だと思う。教員社会が自分の思い描いていたものと違うと感じたなら意識的に前向きに「知らない世界を楽しむ」と思ってくれれば展望は開けてくる。わずか1週間で授業も一回もせず「バイバイ」では間違いなく自分の世界は広がらない。ますます「自己の世界」に閉じこもるだけだ。




 今日は令和34月、1年前に常勤講師から専任教諭に採用した3人の先生方の研修発表があった。国語科女性教師、社会科男性教師、保健体育科男性教師である。それぞれ1年間の教師としての体験を報告してくれた。立派な内容であり、私は専任教師として採用できたことを喜んだ。「我が目に狂いは無かった」と思っているのである。3人はそれぞれ、年齢も経験も育ち方も全てに異なるが、共通しているのは「責任感」である。これさえあれば「自己開発」も「健康管理」も「社会的常識」も今後もますます身に付いてくるだろう。生徒に触れ合い、教えると言う行為に「生きがい」を感じているのが良く分かる。これから先様々な事が「出来(しゅったい)」しても切り拓いて行ってくれるだろう。縁あって本校の教員として安定した収入が保証され、社会からは「教師としての尊敬のまなざし」を受けている身である。「謙虚に周りを観察し、受け入れよ」と私は講評で述べたのである。「人間の幅」を広げて行って欲しい。「社会の常識は教員の非常識、教員の常識は社会の非常識」と言われることの無いようにと。

 研修会の後、引き続いて「職員会議」となった。特段大きな話は無かったが私は前述したあるわずか10日で辞めて行った常勤講師の人の話を軽く触れ、他の人事について発表した。入試広報部の職員を事務室勤務に、ICT推進部長を教務部兼務とし、英語科の教科長をICT教育推進部副部長に当て嵌めた。人事は遠い先まで読んで考えることが重要である。組織の維持発展は人事にある。しかし「一寸先は闇」でもある。「人事を尽くして天命を待つ」では私は責任を取れない。常に隅々まで目配り気配りをして組織を守り、発展させるのが私の仕事であり、大切な事は成果である。成果のない理事長など居ても意味は無い。