2020年7月1日水曜日

その2 神楽部・雅楽部奉仕料授与式




本日一斉参拝の後、神社神道の学校で象徴となる神楽部・雅楽部の部員に対し、2019年度後期の奉仕料授与式が行われました。理事長・学院長先生より、部員に対して奉仕料を授与された後、代表生徒より感謝の言葉が述べられました。先生は「1人でも多くの部員に入部してもらえるように頑張ってください。今後も必要なものがあれば、支援します。」と激励の言葉を述べられました。(K


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その1 一斉参拝と学院長講話 







本日は、2月以来の一斉参拝の日で、初めて全校生徒が神社前広場に整列をし、参拝をしました。時間短縮の為に、浪速生活の綱領の奉唱等は中止し、短時間で済ませ、参拝の後、全校生徒は各教室にて学院長先生の講話がありました。先生はまず冒頭に、理事長と学院長の職位および高校・中学の校長先生との関係についてお話をされました。7月の伊勢修養学舎、9月の浪速祭、11月の高校海外修学旅行等々の現状と変更による対応策についてお話をされました。その後、生徒への指導をなされ講話を終えられました。(K


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2020年6月30日火曜日

「10万円、貰っていいの?」

大阪府、大阪市、堺市など府内の公務員は今日30日に夏季の賞与・一時金が支給された。総理以下国家公務員にも支給された。各紙は詳しく報道している。大阪府で言えば一般行政部門(管理職を除く)での一人当たり支給額は「平均年齢41.1歳で845016円」とあった。令和元年よりも0.2%上がっている。本学院は行政府に遠慮している訳ではないが、少し遅れて3日後の「今週末7月3日金曜日に支給」する。比較の為に府の平均年齢に近いところで算定するとこちらは「平均年齢41.5歳で864661円」だから少し高い程度の支給である。「同一労働、同一賃金」とすれば府立学校の公務員教員と私立である本校の教員とで差がないのは良いことだと思っている。ただ絶対に教育公務員に金額で劣るようなことはしないから本学院の教職員は誇りを失わないで欲しい。正直言うともっと支給できる財務体力はあるのだが私はその分教育環境の整備にお金を使ってきた。これは私立故に極めて重要なことである。日本中探しても何処にも負けない教育環境の完成はもうすぐだ。そこまで頑張ろう!

今朝の朝日新聞は朝日らしい視点で面白い記事があった。「給付10万円もらっていいの?」の見出しである。「所得減らない人ら戸惑う声」「将来世代の負担、罪悪感」「公務員に寄付要求 反発も」等の小見出しだ。要は赤ちゃんも含めて国民一人当たり10万円の支給は国の財政がパンクしている中で正しい判断かと聞いているのである。当初は所得減少の家庭に30万円支給の案から公明党などの強い要望で急転直下変更されたもので、これは「ばらまき」と当初から批判の声はあった。確かに「例月給与は減らず夏季の賞与一時金が80万円も支給される人々に10万円は必要なのか」と思うが総理は4月17日の会見で「国民が連帯していくためにも全ての国民に配る」と表明されたからこれで落着した経緯がある。確かに連帯と言われたら議論はもうお仕舞である。

しかしだ!個人的には困っている人に更に手厚く給付すべきが正しい判断だと思う。この非常時にお金に余裕がある人びとに一律10万円配って何の意味があるのかと思う。菅官房長官は「常識的には申請しないと思う」と発言した。コロナの影響で裕福な人と経済的に困窮している人との格差はますます大きくなってきている。本当に酷い状況である。修学旅行でお世話になっている旅行会社エージェントであるHISさんは給与カットに加え、夏季賞与は全く支給されないという。気の毒で仕方がない。個人個人の人知れない事情があるからこの議論は微妙であり、結論など得られない。ただ私は兵庫県加西市の市長みたいに市の役人に「10万円は市に寄付して」と同じような事を本校の教職員に言う積りはない。個人個人が判断することだ。私はどうするか、ここでは書かない。

6月23日から始まった高校の「3者懇談会」は今日で終わる。15日に学校は完全再開され今日まで無事に過ごすことが出来た。部活動はこちらが心配するくらい一気に活性化してきている。学校は極めて順調である。3者懇談では生徒保護者は中には初めて「担任の先生と初顔合わせ」もあったろう。特に大切なのは大学受験を控えている高校3年生と入学して来た高校1年生である。私は学年主任から報告を受けたが極めて順調に進んでいるとのことで安堵した。国大協は来年度国立の入試問題の範囲は変えないと今朝の記事にもあった。2か月遅れた分を如何に取り戻し希望の大学に進学させるか、私立らしい取り組みをして送り出してやりたいと思う。高校3年の学年団は頑張って欲しい。昨年は過去新記録の受験実績を出した。コロナ禍の中で同じような実績が出れば「浪速の実力は本物!」と高く評価されるだろう。  




2020年6月29日月曜日

英語教授法CELT-Sの認定を得た先生が出た!

久々に「拡大管理職ミーティング」を開いた。開かざるを得なかったからである。詳しくは書けないが「本校の行く末を心配」して管理職に指導をしなければならない局面が最近数件あったからである。管理職でその組織は伸び、管理職で職場の風土は変わる。高校、中学の校長と教頭、事務長、それに入試広報担当のライン教頭、そして私と副学院長、事務統括理事がメンバーである。人が変われば組織は変わる。変わって当たり前で変えるために人を変えるのだが、変え方が急で従来の路線から大きく逸脱すると一挙に浪速は崩壊する可能性があること、又次席にいる者の宿命としてトップのやり方を常に注目し「何時か自分の時代になったら」という思いでプレゼンテーションなどの勉強を怠ってはならないと諭した。


この席で今後「職員会議の議事録」について最終的に担当教頭はイントラに上げる前に一字一句、理事長の発言内容をチェックすることを指示した。教員はこれらを確認して業務を確認する場合もあるから誤解などがあってはならないからである。私は職員会議で話す内容はノートに書き、それを確認しながら話すが時には言い間違いや抜けなどもあるかも知れない。重要事項はその後の「アラウンド」で書いているから「時系列的に言えば」後の方が正しい内容である。トップの指示通りに動けないような組織は危険である。少なくとも誤解などがあってはならない。今や世界はSNSで組織は動いて行っている側面もある。口で話した内容より文章で残したアラウンドが少なくとも誤解を避けることが出来る筈だ。

週始まりの今日は朝から「グッドニュース」が飛び込んできた。何と国際的な権威ある機関から、「中学・高校英語指導者向け国際英語教授資格(CELT-S)コース」の取得が本校で初めて出たのである。これは従来のCELTAとは異なり、英語を母語としない中学・高校の英語の先生を対象とする国際英語教授資格で英国のケンブリッジ大学英語検定機構が認定するもので、相当に難しい内容である。CELT-S開発の経緯は多数の国家プロジェクトで教員研修に携わってきたケンブリッジ大学英語検定機構が義務教育段階で教える英語の先生のための研修に大きなニーズを感じ、CELTA Delta TKT(英語教授知識認定テスト)といった英語教授法認定資格を開発したものである。



「あの先生はCELTを持っているんだって!」というだけで世界に共通する英語教師ということになる。研修合格比率は約10%だから如何に難しいプログラムか分かる。英検1級どころの話ではない。私は英語教育を極めて重要視し、そのために英検やTOEICなどの外部検定資格を勧めてきたが、こういう流れの中でCELT-Sの教員が出て来たことが殊の外嬉しい。更にこの上を行く認定を目指している女性教員もいる。今年の採用した英語の常勤講師の先生は男女二人いるのだが、何とお二人とも英語について資格を有し、努力家だとこの度CELT-S資格を取ったM教科長が評価している話を聞いて、是非こういう先生を本校の専任教諭になって貰いたいと私は思う。

国が国家の威信をかけて小学校から大学入試まで「日本の英語教育の見直し」を図り、英語力強化を目指している時代に「日本語で生徒を追い回すだけの英語教師」「語学研修だけに生き甲斐を感じているだけの英語教師」「相変わらず何の資格もない英語教師」等々はいずれ自然に淘汰されていくだろう。自分は英語教師だと自信を持って言えるような見識と努力、教授法、実績、資格等々が問われる英語教師の受難時代はもう既に来ている。しかしこれらを有すれば世界どこにでも英語教師の職が好待遇で迎えられるだろう。私でも中学生や高校生には英語を「一見、教える」ことは出来る。しかしそれは英語教育の指導ではない。英語のお祭りみたいなものだ。本校を「やどかり」にして英語祭りにはしないで欲しい。

2020年6月27日土曜日

「学院長って何?」


私の現在の正式なタイトルは「学校法人浪速学院 理事長・学院長」である。3月末で浪速高等学校の校長職を辞したからそれまでのものとは異なる。従って「名刺」も新しく作った。学院長は私が勝手に付けたものではない。理事会で正式に決定された「職位」で「浪速高等学校、浪速中学校の校長を指揮監督」し「教学」、すなわち教育の中味について最高の権限と責任を有するものである。私立学校が〇〇学園であれば学園長となる。大阪の私学には結構この学園長のタイトルが付いた理事長は多い。本法人名は浪速学園ではなくて浪速学院だから学院長なのである。


 



96年の歴史で私が最初の学院長である。その昔、組合が強い時代、理事長が幾ら教職員に指示命令をしても経営に関すること以外、すなわち「教育そのものの中味」については権限が及ばないのが法的根拠であった。教員の授業持ち時間を増やすとか教員の休みの為に自習時間が多いとか感じても、私の前の理事長は何も出来なかったのである。教員と結託した「教員のトップである校長」が好き勝手しても理事長は何も出来ない悲しい時代も本校にはあった。だから学校は寂れていった。今の私立大学のマネージメントは経営の理事長と教学の学長という2枚看板で運営されている。しかし大学の理事長と言えども教学の単位である「学部長」と学長の有する権限には入っていけない。どちらかというとある面、理事会の中枢部分である「教授会」が「ごねれば」、改革など先に進まないのである。





私の時代は今後とも全く問題ないが私の後の理事長が全く学校現場や教育の内容について「素人みたいな人」だったら、すぐに校長以下の教員から突っ込まれるであろう。私はこの事を恐れた。従って「校長先生」という何とも感じの良い響きを持つ校長を幅広い視点で指導し場合によっては「更迭する人事権限を有する理事長・学院長の職位を作った」のである。いわば理事長の充て職みたいなもので、これだと例え私の後任の理事長が非常勤でもセンスさえあれば教育の中味に「口出し出来る」担保としたのである。「職務命令」を発することが出来るのである。



今日は「浪速中学校の2021年度入試第一回入試説明会とオープンキャンパス」があった。コロナ対策で「オンライン説明会」とした。保護者は8教室に分散して貰い、中央館ホールから映像と動画でのプレゼンであった。冒頭新浪速中学校長が「挨拶をされる」ので私はそれを聴きに行った。真面目な人格者であり、私が中学校校長に当て嵌めた人材だから不安はないが、それでも「学校の顔は校長先生」であり、存在感とパンチある発信力を期待して参観した。私は中学校校長で6年、高校校長で13年間、何時も冒頭のプレゼンを受け持ってこれだけは欠かすことなくやって来た。そして何時も「万雷の拍手」を戴いてきたのである。真剣に誠心誠意、本校の現状を個性溢れる表現力で訴えるとそれなりの反響は出て来る。





昨年は歴代1位となる137人の入学者で4クラス体制となった。今日から始まる中学校入試広報活動はこれから本番となる。新校長には是非頑張って貰いたい。大いに期待している。私や前任のM校長のマネをする必要はない。真似ても本物とはならない。保護者や生徒の顔を見ながらのプレゼンではないからやり難かったと思うが、今日の冒頭の挨拶はお人柄がにじみ出て良かったと思う。更に工夫して聴収している人々の心に残るように自信を持って保護者から「あの校長先生に子どもを預けたい」と思われるように頑張って貰いたい。自分のカラーを出し、来年3月に「素晴らしい結果を見せて欲しい」、ただそれだけである。





2020年6月26日金曜日

教職員はこのコロナ禍の中で大いに学習しよう

 6月15日から学校は一斉に一見「通常の状態」に戻った。一見だ!今日で2週間が経つ。徐々にペースを取り戻しつつあるように見える。学院神社前や正門付近で生徒を迎えると全員が「マスク」を着用している。これだけが以前と異なる風景である。果たして「何時までマスクを着用するのか?」。以前の新型インフルエンザの時もマスクはしなかった。定常の風邪インフルでも一部の人を除いてマスクは付けていなかった。しかし今、日本国中マスクを付け、テレビで見る世界の人々もマスクだ。「アベノマスク」から始まり、今やマスクは色、形、素材等々「ファッション」となってきている。そう、コロナは世界中に「マスク文化」を生んだのである。



マスクに「フェイスシールド」では蒸して息苦しく授業にならないと言うので結局これは数日で止めた。教員が倒れたら元も子もない。教室はクーラーをガンガン効かし、換気の為に入口のドアや窓を開け放している。そうすると窓から風が入ってくる。太陽光が眩しいからカーテンを閉めると風の為にカーテンが「ひらひら」するから邪魔になって仕方がない。それで窓ガラスに「UVカットのフィルム」を貼ってと言う。カーテンを使わないのだ。私は教員が望めば「何でもOK」と次から次と対応している。こんな事が何時まで続くのかと嘆息するが今自分だけが「とがった」ことを言っても仕方がないから黙っているのだ。


実業界から教育界に転じて19年目になる。しかしまだ「慣れない感じ、完全に染まった感じではない」ものが心の奥底にある。大学を卒業してすぐ「鉄は国家なり」と職場風土の中で上司・先輩が醸し出す「人間としての幅の広さ」「国際的複眼思考」「滅私奉公」「努力と我慢・妥協」「そして時に諦め」等の精神がゆったりと流れていた大手鉄鋼会社に勤務し、そこで32年間一生懸命に働いた。期間的に短い教育界に未だに感じているものはやむを得ないかも知れない。後10年程度、教育界に居たらそのような感じは無くなるのか、どうか?しかし私は思う。時間の長さではなくて「教育界そのものの閉ざされた単一色の世界」での体験がそのように何時までも私を引きずっているのだ。閉ざされた世界が良い、悪い、の議論ではない。教育界とはそういうものだと思うようになってきている。
  


新型コロナは学校を大きく揺るがせた。「オンライン授業」が日本全国の小・中・高・大学に突如として大きく登場し「定例席」を確保した。わずか3か月でコロナは「板書という授業」から「デジタル・リモート授業もあるよ!」と学校の文化を変えたのである。画期的なことであった。今後「不登校」という言葉は死語になるかも知れない。学校に来なくても良い時代が来たのである。確かに全員が毎日毎日登校しなくても良いかもしれない。今朝の新聞記事は「教員が人工知能(AI)に教え込む作業」が出始めたとあった。私はこのようなニュースにわくわくする。又時期尚早という事で「9月入学」は延期となったがこの議論が舞台に躍り出た価値は測り知れない。いずれ日本でも「9月入学・2学期制」は実現されるだろう。「コロナという目に見えない大きな爆弾だからこそ学校を変えることが出来た。」

基本的に教育界は極めて「保守的」である。革新を好まない。最初に出る釘は打たれるから「横並び」である。しかしこれも好き好んでやっている訳ではない。毎日毎日田畑に出て「雑草を抜き、水をやり、苗を育てる」農耕民族的作業が教員の仕事だから必然的にそうなるのだ。今回のコロナ禍で社会は経済的に大きなダメージを受けたが「学校の塀の中」は至って静かで、経済的問題はどこにもない。生徒の各ご家庭は大変だと推察するが学校は特権的に守られ家庭から離れた、閉ざされた空間は安泰なのである。私も含め学校に勤務する教職員は今回のコロナ禍の中で「視点を幅広く、大いなる学習」をしなければならない。それは比較的恵まれた環境にある我々の責務ではないか。




2020年6月24日水曜日

「手塩にかける」

「手塩にかける」という言葉がある。この言葉が使われるようになったのは古くて既に室町時代にはあるそうだ。 元は膳の不浄を払うために小皿に盛って添えたものをいったが、のちに食膳に添えられた少量の塩を表すようになった。 塩は味加減を自分で調えるように置かれたものなので、自ら面倒を見ることを「手塩に掛ける」と言うようになったという。


私は今新型コロナが問題となりつつあった今年3月7日の浪速中学校の卒業式を想い出している。高校は既に1月22日に済ましておいたから、問題はなかったがコロナ騒動が出始め、中学の卒業式は出来るかどうかハラハラドキドキであったが何とか「間一髪」で予定通り挙行出来た。本当に我々は「運」が良い。私立中学校の卒業式は、まさに「手作り感」満杯で、「3年間、手塩にかけてきた生徒達」を中学校の校長先生と先生方が次のステップに送り出す重要な儀式だ。




殆どは私が校長を兼任していた浪速高校に送ってくれるのであるから、高校にとってみれば中学校生徒は「金の卵」なのである。厳密に言えば中学校は高校の併設校でそれほど大きくはない。通常、浪速中学は3クラスなので高校の17クラスや18クラスに比べ規模は小さいが、その分隅々まで心の入った素晴らしい卒業式であった。モーニング姿が良く似合う校長先生がカッコ良かった。このM校長先生はこの卒業式を最後に定年で退職されていった。私の補佐役、参謀として大変よくやってくれた。今でも感謝に堪えない。






 中学生は高校生に比べ、まだ幼いだけに学校生活において「色々とある」のが実態で、中学校の先生方は「毎日走り廻って生徒の面倒」を見て来たのである。そう、走り回るという表現がぴったりである。中学の先生方は職員室で机に座り悠然と構えているシーンなどは全くない。私は中学こそ教師としての原点が詰まっていると信じて疑わない。中学の教師が務められれば大体どこででも対処できる。高校の学年主任に相当するY学年チーフの卒業式での保護者への挨拶、最後の職員室での全教職員へのお話は、保護者との関係、手塩にかけて育てた生徒たちの行く末等、万感心に迫る良い内容であった。内情を知るものとして私には良く伝わった。このY先生、卒業式の後の3月29日にご結婚された。そして4月1日には浪速中学校の生徒生活指導部長という要職にご就任された。将来を大きく期待している人材のお一人である。

私は中学校が大切で又中学生が可愛くてならない。頑張ってくれている中学の先生方には一目も二目も置いている。高校で「ボヤッ」としている教員は一度中学校を体験したら教員としての資質が一枚も二枚も剥けるだろう。それくらい浪速中学は素晴らしい学校に育ってきた。それは「職場の風土であり文化」だ。さぼる教員はさぼれない雰囲気に呑み込まれてしまう。元来職場とはそうでなければならない。