2019年5月31日金曜日

遠山奨志さん来校


 
527日(月)のアラウンドでアップされている元阪神タイガースの遠山奨志さんが正式の契約書に調印される為に本日学校に見えられました。理事長室で楽しそうに懇談された後、理事長・学院長先生は硬式野球部の監督やコーチ、軟式野球部の監督をお部屋にお呼びになり、遠山さんを紹介されました。先生はお時間がある時に硬式以外の軟式野球と中学野球もご指導戴ければとお願いされていました。(K

祝い金・激励金授与式




本日、祝い金・激励金授与式が行われました。
 
 
・激励金授与式
ボクシング部 高校生 3
○第69回ジュニア・ユース国際ボクシングトーナメント
 
3A5組 田中 将吾(たなか しょうご)
1A6組 田河 真羽(たがわ まう)
1A5組 西中 結菜(にしなか ゆな)
 
空手道部 高校生 2
○第9回東アジア空手道選手権大会
 
3A1組 内野 翔太(うちの しょうた)
2A4組 片岡 大樹(かたおか たいき)

 
・祝い金授与式
空手道部 高校生 2
 ○第9回東アジア空手道選手権大会
 
優 勝 3A1組 内野 翔太(うちの しょうた)
優 勝 2A4組 片岡 大樹(かたおか たいき)
 
 
授与の後、理事長・学院長先生は、「浪速高校の誇りを持って、正々堂々と頑張ってほしい!!」と述べられました。(K


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カラス騒動!


学校の安定、安寧とは別に校内ではここ二三日ちょっとした騒動が持ち上がっている。それは「烏(カラス騒動)」と言っても良い。一昨日、私の執務室の前庭にもカラスが出没し「コンコン」と窓ガラスを叩くのだ。写真はその時とっさに私が撮影したものだ。私は「これは、吉兆!八咫烏かも?」と小躍りしたが、直ぐに飛ぶというより歩いてどこかに行ってしまった。指(?)の数は見えなかった。

 


騒動というのは神社前あたりでカラスが飛び回り、登下校中の生徒に向かって「突進してくる」という報告が正門の守衛さんからも出て来た。どうも学院神社の横の樹齢100年の楠木の上部に「カラスのつがい」が巣を作り雛を育ててるらしいと分かった。雛を守ろうとして親カラスは監視しているのだろう。昨日は出入りの植木屋さんまでが出て来て巣の除去にトライしたらしいが、「怖い」と言って、作戦はどうも不首尾に終わったみたいだ。私はその内、雛が大きくなればカラス夫婦も落ち着くと思っているが、果たして今後どうなるか?

 








一般のカラスは、前に3本後ろに1本の指で合計4本足だと思っているが、令和元年の入学生から制服のエンブレムを三本脚の「八咫烏」を主役にした。八咫烏の脚は3本である。そのような時に前述したカラス騒動の出来(しゅったい)である。誰だってこれは八咫ガラスかと思うのは当然だろう。八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において「神武東征(じんむとうせい)」の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)で、一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっていることは前にもこのアラウンドで記述した。

 


八咫烏は「勝利の鳥」「導きの神鳥」等で日本サッカー協会や、自衛隊でも使われている。だから平成30年最後の4月にオープンした堺市美原区のテニスコートは「浪速八咫烏庭球倶楽部」と名付けたのであるが、確かにテニスは強くなり中学校女子は日本チャンピオンになり、男子も準優勝を瞬く間に成し遂げてくれた。令和の時代は「本校は八咫烏と共に生きて行く」。その八咫烏の最大の功績が日本建国に大きく寄与したことだ。それが「海道東征」である。

 


27日の橿原神宮での「海道東征浪速」の奉納演奏の記事が今朝の大阪日日新聞にかなり詳しく出ていた。有難い限りである。記述の内容が正確で実直で文面の行間に好意的な匂いが漂っている。私は嬉しい。そう言えば今年の「天神祭」は令和元年を奉祝してのお祭りにすると大阪天満宮の宮司様や実行委員会のお話があった。そうだ、私は大阪日日新聞に協力する思いで「花火の奉賛」を学校法人として協賛したいと考えた。主催者の一人である大阪日日新聞社も喜んで戴けると考えたからである。それほど規模が大きいわけではない地方新聞社にはそれなりの協賛支援が必要である。私は恩義に対しては恩義で返す。そういう男である。








「平成30年度決算」


それにしても「平成時代最後の30年度決算」、令和最初の理事会・評議員会が無事に終わって「ほっと」一息ついています。数値がすべてですね。幾ら、くどくど説明しても「数値が全てを物語っています」。私がここでゴチャゴチャ書いても仕方がありません。このアラウンドで昨日の会議で公認会計士のO先生が何を言われたか記そうと思います。学校会計、企業会計に精通した有名な会計事務所の先生のご発言であり、本当に身に余るお言葉で評価を頂きました。私立学校法では決算については公認会計士の監査が義務付けられているのですが、計算書類全てで本当に高い評価を頂きました。

 




監査報告(理事会)

令和元年530

「公認会計士の○○です。いつもお世話になっております。

まず、監査の結果、平成30年度の学校法人浪速学院様の計算書類は適正である旨をご報告申し上げます。


 本校の平成30年度の資金収支は「活動区分資金収支計算書」を見ると一目瞭然ですが、「教育活動による資金収支」の収入と支出を見ると、収入は一般企業では売上高に相当し○○億円であり、一方支出は必要経費に相当し△△億円であり、その差額「教育活動資金収支差額」□億円の資金が生み出されたことになります。○○億円の売上高に対して□億円の資金ですから4割近い率という驚異的な数値です。


 平成283月に新校舎が完成してから3年になりますが、その間にも教育環境の整備充実は継続的に実施されています。平成29年度には美原スポーツキャンパスの用地を購入され、平成30年度には、「浪速武道館」増築、「浪速ふくろうベースボールスタジアム」の完成、美原スポーツキャンパス「浪速八咫烏庭球倶楽部」の整備等に5億円の施設整備投資をされました。□億円の資金からこの5億円を差し引いた■億円を「長期借入金返済引当資産」として積立てられています。前年度と同様に、「施設整備の投資」と「返済資金の積立」の手綱裁きは見事と言わざるを得ません。


 「長期借入金返済引当資産」は今年度末に◆◆億円まで積み上がっており、来年度末にはおそらく◇◇億円までになり、長期借入金残高に匹敵するようになり、実質借入金ゼロの財務状態になります。◆◆億円の借入金を僅か4年間で実質ゼロにすることは、至難の技であり、ましてや学校経営ではまず不可能です。


 学校法人会計は、一般の企業会計と異なる会計処理をしますが、特に基本金の会計処理は特有であり、固定資産を取得するとその取得価額を基本金に組入れることになります。貸借対照表で見ると「繰越収支差額」を「基本金」に振り替えることになりますが、「繰越収支差額」も「基本金」も純資産の部ですから、純資産の部の合計がいくら増減しているかを見ればその年度の利益を把握することが出来ます。この見方は学校法人でも一般企業でも同様です。平成30年度の貸借対照表の「純資産の部合計」の増減を見れば、・・・百万円になっています。つまり・・・百万円剰余金が増えた、同額利益が出たということになります。

同様に平成29年度では・・・百万円、平成28年度では・・・百万円の利益になっています。資金面で言えば、この利益に減価償却費を加算したものが資金になります。本校では減価償却費は3億円強ですから、毎年度●●億円程度の資金が生み出されることになります。


本校の利益が■億円、資金が○○億円という驚異的な数値を支えているのは、教育環境の整備充実というハード面と教職員のモチベーションの維持向上のソフト面の両輪が上手く噛み合っているためであり、木村理事長の強力なリーダーシップと揺るぎない熱意の賜物であると思われます。


新元号令和を迎え、学校法人浪速学院様が神社神道を建学の精神として文武両道、美原スポーツキャンパス事業や、創立100周年事業に向け邁進されんことを祈念致しまして、ご報告とさせて頂きます。」

 


今後の予定としては本日中に法務局に資産状況の届け出を行い、令和元年6月1日に本校の公式サイトに「財務状況」として決算報告を開示致します。その後大阪府教育庁私学課に届け出し、6月中に私学課のヒヤリングがなされます。名実ともに平成時代に別れを告げて新時代「令和」に向かって突き進むよう昨日の理事会・評議員会の後、私は管理職を集め意思結集をしたところです。今日で改元の月5月が終わります。まさに「5月は令月」だったと思います。

2019年5月30日木曜日

令和元年初の理事会・評議員会






本日は理事会・評議員会の日でした。理事長・学院長先生は資料の最終チェックや会場の事前視察などされていました。最初に27日の橿原神宮での「海道東征浪速」の吹奏楽部の奉納演奏の動画を各役員の方々に観て頂き、会議が始まりました。本日の役員会は「平成30年度の決算報告」が主テーマとの事で、公認会計士の先生もご出席されていました。私はそこで退室ですが、詳細はまた理事長先生からブログのアップが明日以降あるかもしれません。(K

2019年5月29日水曜日

「橿原神宮 奉納演奏 その3」


27日の橿原神宮での奉納演奏の余波はまだ続いている。新聞を見た知人や友人からも「良い事をしましたね」「良い学校ですね」と言って頂いている。本当に嬉しい限りだ。しかしあの神社、いや、神宮は別格の感じがした。確かに橿原神社とは言わず、橿原神宮だし、一般の社務所ではなくて「橿原神宮庁」と戴いた名刺にはある。分かり易く言えば「格が一歩も二歩も高いのである。神社の称号には、一般の「神社」といわれる他に「神宮」「宮(ぐう)」「大社(たいしゃ)」「社」などがあり、各々の神社の由緒に基づいて定められていると教えて頂いた。



 


 中でも「神宮」という称号は、橿原神宮、明治神宮、熱田神宮、平安神宮、鹿島神宮のように、皇室と深いつながりをもつ神社であるとか、天皇を御祭神としてお祀(まつ)りしている神社に用いられている。ただし、これは前にも触れたことがあるが単に「神宮」と称した場合は、伊勢神宮のことをさしており、これは通称である。正式な名称は単に「神宮」であり、この世界では通用する。私は27日の奉納演奏では胸元に「神宮評議員のバッジ」を付けて臨んだ。皇祖神である「天照大御神」をお祀りしている神宮への畏敬の気持ちと天照大御神から数えて6代後の神様が橿原神宮の神武天皇であるからだ。

 










産経新聞は昨日の夕刊にも連続して記事を出してくれた。それも1面のコラム湊町」に囲み記事で出してくれた。書いてくれたのは恐らくY記者だと思う。今産経が朝刊でシリーズで出している「海道東征」の主筆である。将来は作家希望でもあるらしく文才は言うに及ばず、その徹底した文献調査と脚で稼ぐ取材は素晴らしいものがあり、私の大好きな尊敬する新聞記者である。その記事をベタに打って張り付けて見た。短い文章だが、私の気持ちを余すことなく表現して戴いており、感謝に耐えない。それにしても文章の持って行き方が上手い。大いに勉強になる。簡潔で分かり易い。ここが文章作りのポイントだろう。


 

 産経新聞5月28日夕刊コラム「湊町305」から:

 

126代目の天皇が令和初の国賓と会見されていた27日午前、初代神武天皇を祭る橿原神宮(奈良県橿原市)では、天皇の国作りをたたえる音楽が鳴り響いていた。内拝殿で浪速高校・中学(大阪市住吉区)の吹奏楽部が、学院曲「海道東征浪速」を初めて、奉納演奏したのである

 

「海道東征」は昭和15年、神武の即位から2600年を記念して北原白秋が作詩し、信時潔が作曲した交声曲。同校は5年前、信時の遺族の許諾を得て吹奏楽曲に編曲した。16年に及ぶ神武の旅・東征と、建国の苦労をしのばせる「海道東征」が、中高生の教育にふさわしいと考えたからだ

 

 内拝殿で演奏された「海道東征浪速」も約50分の大曲。同校の吹奏楽部は10年前には部員数人だったが、学院曲の誕生と足並みをそろえるように、全国大会へ駒を進めるまでに成長した。2つの曲には国と学校への誇りがこもっている。教育には欠かせないものを暗示している気がする。」

 
本校は神社神道の学校であるが、我々は教育の中身に自信と誇りを有している。その背景にあるのは宗教の持つ深遠さに対する畏敬の念である。私立は仏教系、ミッション系様々な建学の精神を有しているが、公教育で特に戦後から今日まで宗教教育については「タブー視」されてきた。ここが最大の問題だと私は考えている。学校で教えなくとも家庭で折に触れ、宗教について触れればそれはそれで意味あることであるが、その家庭でも今や仏教でも神道でもキリスト教でも何でもあれ、宗教の持つ神秘性とその尊厳等々語る人々は限られてきている。このような国は世界ではない筈だ。

2019年5月28日火曜日

「橿原神宮 奉納演奏 その2」


奉納演奏の後、記者団から取材を申し込まれた。あらかじめタクトを振った山本先生と吹奏楽部の部長が代表取材であったが、どうしても私にも話が聞きたいと言うので基本的にメディアには出ないように逃げているのだが橿原神宮庁の広報の方の申し入れもあってお受けすることにした。色々と聞かれたが、基本的には神社神道の学校として御世替り、改元の月である、この五月中にこの機会を得る事が出来、感極まっていると申し上げ、ご関係の皆様のお蔭だとお礼を申し上げた。そしてこれは単に奉納演奏だけの意味ではなくて「過ぎし学校改革12年の全ての集積」であることを強調したが果たして記者さんにはその意味がお分かりただいたかどうか。今朝の新聞記事は産経新聞と地元奈良新聞が結構大きく、それも好意的に書いて頂いていた。

 
 
 


今迄何回も「海道東征」の中身について書いて来たが再度今日のブログで知らしめたいと思う。交声曲(カンタータ)「海道東征」は、昭和15年に皇紀2600年、即ち初代天皇の神武天皇が即位され2600年に当たることを奉祝して、信時潔作曲、北原白秋作詞によって作られた管弦楽、独唱、合唱からなる日本の名曲である。古事記や日本書紀の神話を元に、神武天皇がまだカムヤマトイワレヒコノミコトと呼ばれていた頃、筑紫の日向(美々津)を出発し、宇佐、岡田、吉備、浪速、白肩と、大和を目指して東征する物語が壮大に描かれた演奏時間50分に及ぶ大曲である。

 


戦前はしばしば演奏されていたが、戦後はタブー視されてきたためほとんど演奏されなくなり人々の記憶から失われていた。勿論私も知らなかった。平成26年2月、戦後3回目となる海道東征の上演が熊本で行われ、これを報じた産経新聞記事を読んだ時に私は何か強く感じるものが有った。私は直ぐに行動に移し、苦労して遂にCDを求め、初めて演奏を聴いた時に私は「この海道東征こそ学校法人浪速学院の学院曲として相応しい曲」だと確信した。早速作曲者のご遺族より吹奏楽編曲の許可を戴き、「海道東征浪速」と名称を変え、本校吹奏楽部の独占演奏が出来る学院曲として今日まで学校行事や神社庁の式典などにて演奏させていただいている。






  

編曲は吹奏楽部の外部指導者である大阪音楽大学の萬浪弘和先生にお願いした。お忙しい御身で相当なご苦労もお有りだった、先生は私の希望を聞いて見事な曲に編曲してくれた。心から感謝致している。オリジナルの海道東征も全8章に分かれており、簡単に言えば以下のような構成である。

 第一章 高千穂(たかちほ)

    荘厳な調べで幕を開け、国産みの物語と高千穂の素晴らしさ、大和への東征の決意が歌われる。

 第二章 大和思慕(やまとしぼ)

    東征の目的地である大和への憧れが美しいメロディで描かれる。

 第三章 御船出(みふなで)

    日向の美々津から船団が出航する喜びと、輝かしい前途が表現される。

 第四章 御船謡(みふなうた)

    海の神の鎮めの詩、その後船を漕ぐときの歌謡風の船謡が続く。

 第五章 速吸と兎狭(やはすいとうさ)

  日向を出発して初めて筑紫に上陸するまでの出来事を高らかに謳う。

 第六章 海道回顧(かいどうかいこ)

    吉備から(難波)浪速に向けて出発する前にそれまでの長い旅が回顧される。

 第七章 白肩野津上陸(しらかたのつじょうりく)

    白肩野津へ上陸し大和に入る前、豪族・長髄彦の抵抗に遭う様子が描かれる。

 第八章 天業恢弘(てんぎょうかいこう)

三種の神器を讃え、神武天皇がついに橿原の地で初代天皇として即位する。

国を治める偉業と山河の美しさが感動的に表現される。

私は勝手に言っているのだが「日本国建国の大河物語」なのである。とにかく調べが美しい。勇壮であり、快活であり、楽しく品格に富んでいるまさに「日本人のDNAの調べ」と言っても良い。昨日は第5章を除いてすべての楽章を通しで演奏した。

 


 





昨日の指揮者は主席音楽監督で国語科のY教諭がタクトを振った。見事な指揮ぶりだったと思う。初代、二代目が女性の監督で初めての男性監督である。私は「凛として振れ、ダイナミックに振れ」と言い続けてきた。以前は幾分「なよなよしい」感じだったからであるが昨日は良かった。この楽曲は基本的に「戦いの曲」である。雄々しく、それでいて品格に富み、「前に、前に進む」光景を聞く人に想像して頂けなければならない。80人を超す部員も次第に緊張が解け、素晴らしい演奏になったとその顔に出ていた。私は生徒達を褒め称えた。最初から最後まで私の傍で演奏を聞かれた久保田宮司様は詩の入る交声曲も悪くはないが曲だけの吹奏楽と太鼓の音曲は想像をかきたてられ素晴らしいですねと褒めて頂いた。このようにして用意周到、準備に万全を期して行った改元記念奉祝の行事である橿原神宮への神武天皇一代物語の音曲奉納は無事に終わった。私は今、幸せ感に浸っている。








2019年5月27日月曜日

「橿原神宮 奉納演奏 その1」


最近ある会合で「橿原神宮」の話になり、一般人のある方が「あのお宮はまさに神社らしい神社ですね」と言われたことがあった。このような言い方をする御仁はさぞかし多くの神社を今まで参拝されてきた人なんだなと思った。確かにこの宮は少し趣が異なる。「はじまり」と言う感じ広い境内に漂う。何となく分かるような気がする。今日は総勢250人を引き連れて奈良県橿原市の橿原神宮に参拝に出かけた。橿原神宮庁から本校吹奏楽部の楽曲である「海道東征浪速」の奉納演奏が許されたからである。それも場所は通常は許可されない内拝殿の真ん前だから如何にご配慮頂いたか分かる。有難い限りである。




ホームページの最初には「建国の聖地・橿原、ここから日本という国が始まりました。」という字句が迫る。日本最古の歴史書「古事記」や正史ともされる「日本書紀」において、「日本建国の地」と記されたのが橿原の地である。天照大神の血を引く「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」が、 豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から海を渡って東に向かい(海道のこと)、 想像を絶する苦難を乗り越え、向かい来る豪族や敵と戦いながら(東征のこと)、畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建され、初代神武天皇を宣言されたのである。


 

 第一代天皇として即位された、この時が我が国の「紀元元年」になる。今からおよそ2,600余年前のことであるから、西洋の暦、「西暦」よりも古いのである。従ってここ橿原は日本の歴史と文化の発祥の地でもあるし、日本の原点とも言える。当然、橿原神宮がお祀りしているのは、第一代神武天皇と皇后の「媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」といささか読みにくいが古代の神様のお名前はすべてそうだから仕方がない。

 


初代神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこ)とより四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」ととても覚えられないお名前が正式なお名前ある。皇后様(媛蹈韛五十鈴媛命)は、大物主命の御娘に当たる方で、父上は三輪山に抱かれている「大神神社(おおみわじんじゃ)」のご祭神である。

 


このようにして天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に仰せになった「豊葦原の瑞穂(とよあしはらのみずほ国)はわが子孫の君たるべき国なり」のお言葉通り、神武天皇が国内を統一なさり、畝傍山の東南・橿原の地に皇居を造られ、即位の礼が行われ、それを形にする為、明治時代に入り、建国の神武天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出された。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿を下げ渡され、明治2342日、官幣大社・橿原神宮として御鎮座になったのである。時代は明治、大正、昭和、平成、令和と連綿と続いており令和は神武天皇以来126代目の男子一系の皇統で繋がって来たのが我が国である。このような国は世界にはない。この続きはまた明日のブログで。

 
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