2025年10月1日水曜日

一斉参拝、学院長講話:一般論としての体罰の話し

 今日は10月1日、「一斉参拝」の日であった。もう20年近くやってきているから、形は出来ているが、馴れではなくて、何時も「緊張感」を持ってやっている。気温は間違いなく下がってきており朝夕は爽やかさを超えて幾分の肌寒さを感じる時もあるが、今朝はまだ暑かった。神道世界ではこの毎月の1日を「朔日」とも書き、重要視している。10月はスポーツの秋で18日が「中学校の体育大会」、29日は「高校の体育祭」が予定されている。「行事消化型社会の典型」と言われている学校であるがこの運動会、体育大会、体育祭的なものが無い学校も少ないだけに自ら廃止すると宣言するには社会の、世間の声は未だ大きくはない。生徒も保護者も未だに秋の時候を楽しむ学校行事になっている。個人的には「もう学校でする必要があるか」という気持ちもある。 


参拝の後の「理事長・学院長講話」では冒頭まず「衣替え」の話から入って行った。高温多湿の日本では文化として、暑くなる前の6月、寒くなる前の10月に着ている洋服を変える文化であるが、地球温暖化で今朝も涼しいとは言えない気温であり、移行期間を2週間程度設けると話した。これが冒頭の「つかみ」の部分である。次に私は「焼き立てパンコーナーの改装」に当たって生徒から多大の協力を貰ったお礼を言い、10月の適切な時に「ピザ」の販売も開始する旨話した。そして6Rを生徒にも広く保護者や学校に近い人々の為に開放していく一環として「6R全体を文化活動の拠点」とすべく動く旨話した。ピアノ演奏会合唱や独唱などまた絵画や書道の作品なども展示するコーナーを設けるとした。 


そして生徒や教職員には耳の痛い話になるが「SNSの利用の仕方」というか、「SNSの一般教養的」な話として注意を喚起した。そして教職員には体罰問題について敢えて強く言及し、指導を行った。タッチな問題だけに言及するかどうか一瞬悩んだが私は踏み切った。そして一斉参拝の後の学院長講話は生徒向けだけではなくて教職員も対象であることを今回明確に述べた。生徒を教える教員は当然校長や理事長・学院長から指導を受ける立場でありこの点を再度徹底したのである。「学校教員の体罰問題」については古くて新しい問題であるがこれは文部科学省初等中等教育局児童生徒課の行政法令であり学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に明文化されている。本校では学校設置者として教員による体罰と教職員と女生徒との私的交際は絶対に許されないと明言した。 

私も公立高校の校長時代、そして私立高校の校長経験も含めて20年以上現場の中にいたが、多くの体罰を見聞きしてきた。その結果「教員が体罰を行う心理」には、いくつかの要因が考えられるという事だ。言えることは、まず、体罰は教育的指導の一環として行われる理屈であり、教員はその効果を期待している場合が圧倒的に多いと思う。しかし、体罰の効果は必ずしも期待通りでないことが多く、逆効果になることの方が多い。問題は教員の中には、体罰に教育効果があると知ってか知らずか、「カッ!」として手が出る教員がいることで、これが最も事態を複雑化しており、後で教員が泣く様になっても私とてその教員を救済出来ないことだ。私情も交じって本当に「涙が出る話し」で全てが終わる。 

この学校の管理者として、又最終意思決定者が体罰を一部容認するようになったらその学校は終わってしまう。教員は「自分の権力感を示す手段」として咄嗟に手が出るなら、それは「生徒の私物化」であり、「自己ワールド」に囚われているからで、そのような考えで私は教員に生徒を負託しているのではない。体罰的な言動が許されるのは「自己防衛の原理」で、 教員が自分を守るために体罰を行うことがあるかも知れないが、そのようなケースは殆どない。体罰は根絶しなければならない。要は体罰を正当化する理屈は今やどこにも一切、何もないのである。