2025年4月21日月曜日

東京「湯島天神、押見宮司様からお電話が!

 学校は極めて順調に来ている。これは長い経験で私には良く分かる。「カン」というのか「勘」「感性」とでも良いが「校内の雰囲気」で分かるのだ。有難い事である。こういう時に「嬉しいことは重なる」もので先週東京の有名な神社である「湯島天満宮の押見名誉宮司様」から有難いお電話を頂いた。東京では大変著名なお方で、特に故石原慎太郎都知事とはご昵懇で、何時でも会わしてあげると良く言って頂いた。今でも全国防犯協会連合会の会長など重要な役職をお持ちの、本校OBである。電話の趣旨は簡略に書けば「理事長には私の母校をこんなに素晴らしい学校にしてくださった。御礼に1000万円を寄付したいので母校の為に役立てて欲しい」と言うものであった。私は思わぬこの温かいお申し出に感激し、感涙にむせんだ。会話の時間は短く約3分半程度であったが私には生涯忘れられない電話となった。 

今はご子息に宮司職を譲り、名誉宮司となられておられ、日常の神明奉仕には問題はないが長距離の移動にはいささか困難を感じられ、この6月の役員改選を以て平成29年から通算7年11カ月に及ぶ「評議員職」を勇退され、「同窓会長も退任」されるなど見事な引き際の申し出であった。私に何時も言われたのは、もはや口癖となっており、「本当に駄目な学校であり、自分が卒業した校名を出すのさえ恥ずかしかった」が今や「本当に立派な学校にして頂き、母校が誇り」とまでおっしゃって頂いた。私への感謝の思いからこの度の大口のご寄付になったとおっしゃる。そういえば開校100周年の祝賀会で乾杯の音頭を執って頂いた時には涙で言葉がかすれておられた。私はその光景を思い出し又も目頭が熱くなった。

「湯島天神」は歌川広重描くところの江戸百景の一つであり天正十九年(1591)十一月、徳川家康が湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進して以来の江戸の名所であり「粋な江戸っ子」の誇りの神社である。「縁日」の日は境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。しかし湯島天神を語る時は近世の「泉鏡花の婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を忘れることは出来ない。とにかく境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われていたり、また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われたとの記録もあるくらい江戸っ子の遊興の場所であったことから、このお宮は「落語発祥の地」「劇団新派発祥の記念碑」など枚挙に暇がない


               


瓦斯燈もあり、新派の碑もある。泉鏡花の「筆塚」も昭和十七年に、里見 惇、久保田万太郎、岩田藤七らによって建てられている。あの有名な「婦系図」、お蔦主税の舞台となった「湯島通れば思い出す」の歌謡曲は一世を風靡した。懐メロと言われるが時々私はこの大好きな歌謡曲「湯島の白梅」を歌う。江戸っ子の「義理と人情」を歌ったこの名曲の歌詞は以下の通りである。この詩には古い江戸、東京の趣き全てが入っている感じがする。 



押見守康先生、本当にありがとうございました。この度のご浄財を有難く頂戴し、先生の後輩となる生徒の為に有効に使わせて頂きます。そして先生のお気持ちを役員や教職員、生徒、浪速校友会の面々に間違いなく伝えます。まだまだお元気でご活躍頂き、今後ともご指導を宜しくお願い申し上げます。機会を見つけて私は湯島天神様を久方ぶりに参拝し、東大が近く、文教地区でもあり、未だ江戸の香りのする本郷界隈の空気を吸いに参ります。その時は例の本当にほっぺが落ちそうになる「江戸前のかば焼きウナギ」をご馳走ください。これが楽しみです。 

湯島通れば思い出す    忘れられよか 筒井筒                  青い瓦斯灯 境内を

岸の柳の 縁むすび      お蔦 主税の心意気                        出れば本郷 切通し

知るや白梅 玉垣に                かたい契りを 義理ゆえに           あかぬ別れの 中空に

のこる二人の 影法師               水に流すも江戸育ち                     鐘は墨絵の 上野山