平成18年12月22日、午後15時過ぎの事だった。私は当時心斎橋筋にあった、喫茶店で一本の電話を待っていた。そのお店の名前も、そこで何を飲んだのかも、全く記憶にない。携帯が鳴って「直ぐに神社庁にお越しください」という呼び出しを受け御堂筋沿いの本町付近の伊藤忠商事ビルの裏手にある初めて訪問する大阪府神社庁に急いだ。歩いて10分程度の近さだったことは覚えている。庁長室に案内され、そこで少し前に終わった神社庁理事会の決定を告げられた。この日、正式に私が学校法人大阪国学院浪速中学校・高等学校の理事長就任と翌年4月1日の校長就任兼務が決まった。お相手は大阪天満宮宮司、大阪府神社庁長、学校法人大阪国学院筆頭理事であった寺井種伯先生であった。
その寺井先生が黄泉の国に旅立たれた。
あの時以来、20年間のご厚誼を頂きご指導を賜ったお方である。次のように言われた事が今でも忘れられない。「木村さん、貴方で駄目だったら学校を閉じようと思う」と。寺井先生のお傍には常に、先生の盟友と言うべきもう一人の人物、道明寺天満宮宮司の南坊城宮司で、私はこのお二人の期待に応え、「死ぬ気で頑張ろう」と誓った。これが「浪速改革の始まり」であった。両先生ともこれ以来学校での役員会に欠席されることはなかった。ご心配であっただろうし、次は木村から何が飛び出すかと言う期待と不安もお持ちだったように思う。寺井先生のお蔭で多くの立派な名のある方々をご紹介され、高級なレストランにも何回も連れて行って頂いた。神社界の親しい人は寺井さんが長兄、南坊城さんが次兄で末っ子の私を入れて「団子三兄弟」と揶揄していたくらいの公私ともに親しい関係に育っていった。
2日19時37分、寺井種伯先生はご逝去された。享年94。約1年半に及ぶ闘病で、昨日大阪天満宮にて通夜祭、そして本日が密葬で4月28日に天満宮葬と発表された。ご子息であり現大阪府神社庁長、本校の筆頭理事でもある寺井種治宮司様より直接お電話を受け、通夜祭と本日の家族葬にも参列を許された。昨夜ご拝見させて頂いたお顔は大変お綺麗で「楽になった、微笑みみたいな表情」を私は感じた。最終役職は神社本庁の常務理事を6年間、務められ、「長老」の称号を与えられた。勿論本校の名誉理事長であり、私はご退任後も役員会の報告に大好物であられた堺の名店の「穴子寿司」を持ってご自宅に伺うことを忘れなかった。何時も二人の懇談と言っても、しゃべるのは殆ど私であったが、じっと聞いて頂き、時の過ぎるのも忘れていた。
大変立派な業績を上げられ、また多くの人々に慕われた、私にとって尊敬し、敬愛する寺井先生との20年間のご付き合いは本物であった。「理事長、死ぬまでやってね」と笑いながら、何回も言われた。健康に注意せよと言う事である。特にご病気で100周年記念事業に出席能わず、病床から100周年記念誌「夢の軌跡」に「木村理事長と浪速改革」という特別寄稿を寄せて頂いた。この中に思い出の写真が10枚もあった。私は先生にお願いして「常若」のご揮毫を頂き、中央館事務室前の急所に掲げている。先生は地上には居なくとも天上世界から浪速学院を見守ってくれている。学校と私には寺井先生から頂いた数多くの宝物がある。寂しいが大きな悲しみはない。「94歳まで生き抜いた男の生き様」を教えて頂いたような気がする。




