来週の18日の「修了式」を受けて令和7年度は終わる。本校は3学期の終業式とは言わないで修了式と表現している。結構私はこの言い方を気に入っているが、何時頃からこの言い方になったのか存じていない。2回目の専願点呼は既に11日に終わっているが、「併願点呼」は19日である。この日、公立高校の合否が分かり、惜しくも希望が叶わなかった受験生が本校に登校し、入学手続きを取る。従って「19日から名実と共に令和8年度の助走」が始まる。ところで最近は「学校の先生はお休みが多いですね」と言われなくなった。生徒は春休みと言っても教職員に春休み期間などは無い。逆に来年度の準備で忙しいくらいとなる。
私は19日を楽しみに待っている。この日、来年度の陣容が分かる。4月6日の中高合同の入学式まで陣容が分からないという現象は日本だけかも知れない。高校の新1年生が専願、内部生そして併願生の合計数値が本校の入学者数になる。専願と内部生は既に固まっており、後は併願だけである。クラス数は23クラスか、24クラスか?想定としては980人から1020人程度と見ている。これなら23クラスで行ける。しかし念のため担任の当て嵌めは24人の先生を内定しており、先の職員会議で担任名は発表されている。最後の24番目の先生にしてみれば「どうなるの?早くしてよ!」というお気持ちなら、分からないこともないが、多かれ少なかれ私立高校の宿命みたいなものだから。
そしてこの20年間、今は無くなったが休みには骨董市に出かけ、気にった陶芸作品を安く購入し、部屋や廊下のあちこちに陳列し、眺めていると心が落ち着く。焼き締めの備前焼の作品が多い。このような私の行動パターンが「個性の群像」の言葉を導き出したのかも知れない。
誤解を時にもたらすが個性とは「ありのまま」ではないし、内部から「じわじわ」と沸き起こりながら変化・変貌していくものだと考えている。確かにありのまま、素の状態で入学してくるが、3年後6年後には大きく変わる。素の土が練られ、粗い形になり、余計なものが削り落され、見た目、形が完成する。しかしこの形は「素焼き」という工程で強く締まり、二度と現土には戻らない。だから我々は土器から年代が分かるのである。素焼きを経た形に「薬」がかけられ、今度は「本焼き」という工程で更に強く、美しく最終的作品となる。出来た物はどれ一つ同じものはない。「形も色も使い方も何もかも違う」。これが元来の個性である。極めて多くのプロセスを経て個性が出来上がる。更に個性は努力によって「磨かれ、輝き、本物になっていく」。教育と言う営為はこの工程に大きく似ており作用している。教育という営為こそ最も人間にとって影響ある存在なのである。教育のプロセスは焼き物のプロセスだと考えているから、私はこの世界に飛び込み、今も生徒や教職員を練って、練って、そして削り、形を揃え、火に通して焼しめて強く美しい個性となるように身命を賭して育てている積りである。

