2022年4月18日月曜日

閑話休題「井戸茶碗」

 今週は全校生徒の健康診断が21日と22日の二日間にわたって行われる。何しろ2650名を超える数だから大変だ。中1高1と中2中3高2高3の2グループに分けて、それも午前と午後の時差登校で実施する。完全なマニュアルが整備されており全く問題は無い。医師だけで耳鼻科、眼科、歯科、内科は男女別のドクターで総勢20人のお医者さんが入って下さる。このように学校は授業をしながら法的に決められている事をやらねばならないが、教職員の頑張りで粛々と安定して進んでおり、今週は私も時間が取れて、明日から健康診断の為に暫しのお休みを頂いた。 

ここで「閑話休題」として・・・。”それはさておき、ともかく”など、話が横道にそれたのを本筋に戻すときにいう語である。「閑話」は暇にまかせてする「無駄話」のことであり、「休題」は話すことをやめることだ。今日のアラウンドは暇ゆえの「余話」であると言っても良い。要するに理事長としての公務に関する事とは関係ない「こぼればなし」の類である。余聞、余録、逸話、裏話、楽屋話、内輪話、打ち明け話、内緒話、自慢話に相当するものだ。私は40年間、陶芸をやってきたが、教育界に転じて、公務に集中する余り「作陶」から遠ざかっていた。その期間は凡そ15年間に及ぶ。 


ところが人間とは摩訶不思議なもので昨年あたりから急激に意欲が湧き始め、再度、粘土と格闘するようになった。まず復活の象徴として「オカリナ」作りに挑戦した。「全く知らない対象に挑んでこその自分」である。世の中には殆どのオカリナは素焼きであるが私は「本焼き」のオカリナに挑戦し、ようやく目途が付いた。長い陶芸活動の休止時間のリハビリテーションになった。そして今心の内には「茶陶」としての「井戸茶碗」が大きく膨らんできている。井戸茶碗は16世紀の李朝時代前期に製作された「高麗茶碗」である。製作地は慶尚南道、儒教が国教であった朝鮮半島では手工業は蔑視され、雑器として全く評価されていなかった当時、日本の茶人に好まれた茶碗で「一井戸 二楽 三唐津」と言われた程の名器として日本で日の目を浴びたが、朝鮮半島の製作者らの名は歴史に消えて残っていない。 


井戸という名称の由来は諸説あり定かではないが、一説に、文禄・慶長の役の際に井戸覚弘が持ち帰ったともいうが、それ以前から日本に「井戸茶碗」の名称はあったという文献もある。日本の文献に高麗茶碗が登場する初見は1537年(天文6)であり、茶の湯が唐物(からもの)中心の時代から「わび茶」へと移っていくその初期にあたっており、この美意識にふさわしい茶碗の王座を井戸茶碗が占めている。桃山時代、利休の一番弟子と言われる「山上宗二記」には「井戸茶碗、是(これ)天下一ノ高麗茶碗」と書かれている。井戸茶碗はやや柔らかい陶胎であり、元来は青磁系の焼物に属し、長石質の白色透明性の高火釉(ゆう)が施された「椀(わん)形の茶碗」で、素地(きじ)は黄褐色、枇杷色を呈している。 



現代では山口県の「萩焼」が主流である。その作風によって、「大井戸、古(小)井戸、青井戸、井戸脇(わき)、小貫入(こがんにゅう)」などに分類されており、多くの名品が残されている。代表する大井戸をみると、竹の節状の大きめな高台(こうだい)、高台脇の力強い削りあと、ゆったりと曲線を描く椀形の姿、枇杷(びわ)色の釉色(ゆうしょく)に特色がある。私は今から45年くらい前に井戸茶碗の国宝「喜左衛門」を東京の国立博物館で観覧し、その時に見た瞬間、身体が緊張するくらい震えた記憶がある。何故か今その井戸茶碗に再度取り憑かれているのである。 


私は今陶芸復活の為に設えた千早赤阪村の工房に足しげく通ってこの喜左衛門井戸の「写し」を作りたくて悪戦苦闘している。まず本物を見てそれを再現する「真似事」から出発し、そして究極は「木村井戸」を学校茶道部に残したいと思う。お茶人、垂涎の井戸茶碗をこの手で作陶し、生がけで白化粧して素焼きし、釉薬をかけて本焼きをする。その為に粘土は山口県の「大道土」、それに「見島土」、加えて「萩砂」と「朝鮮カオリン」を入手した。今は釉薬を検討している。あらゆる文献から高麗井戸茶碗の成分は判明しており、まず忠実に再現できるかどうかである。「忙中閑あり」、時間を探し出しては学校界に転職する以前の焼き物作りにのめり込んでいた時代の自分に今、戻りつつある。この意欲が逆に浪速学院への更なる進化発展への熱情を高めるのである。何か良い茶碗が造れそうな気がする。