2022年4月25日月曜日

浪速100年アーカイブ① 「校舎も無く、校長も居なかった旧制浪速中学校 第1回入学式」

 今から丁度99年前に遡り、かつプラス5日前は「大正12年(1923)4月30日」になる。言い換えればその日は令和4年4月25日であり今日の日だ。くどくどと書いたが本校は来年の「令和5年4月30日に創立100年周年」を迎える。その日、「旧制浪速中等学校は第一回目の入学式」が挙行された。学校行事の関係で5月1日を「開校記念日」と称しているが実際はその前日の4月30日が社会一般でいうところの創立記念日である。この日生徒数204名で浪速中学校は出発した。今年の新制浪速中学校の入学者数は133人だから開校時よりも今は少ない。とにもかくにも今日はこの日から99年と1週間前である。生徒募集は府庁で行い、入学試験は「天王寺師範学校」で行ったとある。試験問題が残っていれば面白いのだが、今はそれを探す術さえない。 

「校舎が間に合わず」、結局今の高野線我孫子駅と沢之町の中間西側の「元工場の建屋」を借りて「東成郡墨江村仮校舎」と銘打って204名の生徒で「浪速中等学校は出発」した。着任当初、私はこの地域の古い図面でこの仮校舎の址を探して歩いたがその面影は当然のことながら何処にもなかった。添付の古い写真を見ると他には建物など何もなく南海の高野線の電車が後ろを走っている。今からおよそ99年前の写真である。今日も周辺を歩いてみた。恐らく現在の墨江幼稚園、墨江小学校辺りではないかと今回は想像した。「今は昔」、今後このアラウンドにて時折「浪速今昔物語」を語ることにして開校100年を寿ぎたいと思う。 



学校の起点は「創基」と言うのだが、本校の創基は明治15年11月4日に開設された「皇典研究所大阪分所」がスタートした時機を取るという考え方も納得できる話である。さすれば本校は創基140年、創立100年という事になろうか!古い伝統ある私学である。ちなみにこの年、明治15年、明治天皇は児童生徒に日本の道徳を明らかにして「幼学綱要」を命じ、まとめられて、これが明治23年の「教育勅語」の煥発に繋がった。明治維新を成し遂げ我国は前途洋洋「坂の上の雲」の時代であった。皇典研究所は明治41年に発展的に「大阪国学院」に名称変更し、夕陽丘に校舎を定めて「神職の養成機関」であると同時に「神道精神鼓吹の場」として今日まで存続してきている。現在の大阪国学院は本町の大阪府神社庁ビル内に移転している。その大阪国学院が大正12年教育振興の松明を掲げて本校を設立した。大阪国学院はまさに本校の「生みの親」なのである。

 校舎も無かったが「校長先生も居なかった入学式」である。実は大正12年2月28日、設立者、大阪国学院は中等学校の設置を出願した。そして驚くのは一ヵ月後の3月31日に「設立が正式に認可」されている。4月17日に大阪府から教育主事であった大島鎮冶氏が「校長事務取扱」として着任され、2週間後の4月30日に入学式が挙行された。古い写真で見る限り教職員はわずか8人であった。正式の初代校長は1年後にご着任されている。開校100年を1年後に控え、私は3月の年度末理事会で「浪速中学校の新校舎を建設する」ことを宣言し決議された。旧制浪速中学校、新制浪速中学校の100年の歴史を想い、新校舎を建設し新たなる100年の狼煙を上げる。現在製作中であるが、全校生徒、教職員、保護者が今年1年胸に輝く「浪速100年バッジ」を付けて、100年の学校という伝統を誇りに「浪速教育」を更に高めて行く。