2022年4月14日木曜日

人生いろいろ、先生も色々

今日は新しく専任教諭に採用された3人の教員から「1年間の研修報告会」と引き続いて「職員会議」があった。これらに言及する前に高校校長から報告を受けた直近で起きた事案を書くとしよう。今年41日に採用した常勤講師の人だ。敢えて教科とか男性、女性とかは書かない。又この人を先生とも呼ばない。正直私自身お顔も思い出せないし、「フー?」って感じだ。この人、校長に「私、辞めます!」。先週末の事だ。突然の事で驚いた校長は時間をかけて理由を聞き説得をした。週末を挟んで月曜日、この人は登校して来なかった。当然校長は電話連絡を入れて、再度説得と同時に「社会人としての常識ある振る舞い」を諭したという。 


火曜日登校して来たこの人は「自己都合で退職」との通知書を持参して直ぐに学校を後にした。この事案は歴代2番目の早期退職である。1213年前に同じような事があったがこれは41日の採用で着任式の後、1回だけ登校してきてそれ以来顔を見せることは無かった。今回の理由は「一人で仕事をできる環境を望んでいた、研究みたいな仕事が向いているかも?」とか訳の分からない理由だと思うがそんなことはもうどうでも良い。私は校長の措置を了として、至急代わりの教員を探すよう指示した。早速、昨日面談して良い人材が取れたと校長が喜んで報告に来た。しかし大いに迷惑を受けた。社会人として信じられない所業である。「何で応募してきたの?」

 時々このような事例がある。聞いてみると他校でも同じような事があるらしい。学校の教壇に立つと言う格好だけの「自分勝手なイメージを描いて」来たが、現実を目の当たりにすると、先行きに不安感だけが募り、「逃げ出したくなる」のである。「目の前のこと」「知らないことを楽しもう」と出来ないのである。世の中にはせっかく目の前においしそうな食事があるのに、いろいろ考えて楽しめない人がいる。「もっと別の選択肢があったかもしれない」「これを食べるとカロリーが気になる」など、食事にまつわる後悔や心配をしたり、まったく関係のない仕事のことを考えて集中できなかったりすると、もうアウトである。

 私が良く使う言葉に「今を生きる」という言葉があるが、一見難しいように聞こえるが要するに目の前のことを純粋に楽しめるかどうかの余裕だと思う。教員社会が自分の思い描いていたものと違うと感じたなら意識的に前向きに「知らない世界を楽しむ」と思ってくれれば展望は開けてくる。わずか1週間で授業も一回もせず「バイバイ」では間違いなく自分の世界は広がらない。ますます「自己の世界」に閉じこもるだけだ。




 今日は令和34月、1年前に常勤講師から専任教諭に採用した3人の先生方の研修発表があった。国語科女性教師、社会科男性教師、保健体育科男性教師である。それぞれ1年間の教師としての体験を報告してくれた。立派な内容であり、私は専任教師として採用できたことを喜んだ。「我が目に狂いは無かった」と思っているのである。3人はそれぞれ、年齢も経験も育ち方も全てに異なるが、共通しているのは「責任感」である。これさえあれば「自己開発」も「健康管理」も「社会的常識」も今後もますます身に付いてくるだろう。生徒に触れ合い、教えると言う行為に「生きがい」を感じているのが良く分かる。これから先様々な事が「出来(しゅったい)」しても切り拓いて行ってくれるだろう。縁あって本校の教員として安定した収入が保証され、社会からは「教師としての尊敬のまなざし」を受けている身である。「謙虚に周りを観察し、受け入れよ」と私は講評で述べたのである。「人間の幅」を広げて行って欲しい。「社会の常識は教員の非常識、教員の常識は社会の非常識」と言われることの無いようにと。

 研修会の後、引き続いて「職員会議」となった。特段大きな話は無かったが私は前述したあるわずか10日で辞めて行った常勤講師の人の話を軽く触れ、他の人事について発表した。入試広報部の職員を事務室勤務に、ICT推進部長を教務部兼務とし、英語科の教科長をICT教育推進部副部長に当て嵌めた。人事は遠い先まで読んで考えることが重要である。組織の維持発展は人事にある。しかし「一寸先は闇」でもある。「人事を尽くして天命を待つ」では私は責任を取れない。常に隅々まで目配り気配りをして組織を守り、発展させるのが私の仕事であり、大切な事は成果である。成果のない理事長など居ても意味は無い。