2022年4月30日土曜日

浪速100年アーカイブ②100年前に本校が誕生した当時の状況

 4月25日のアラウンドにアップした「浪速100年アーカイブ①」で書いたように旧制浪速中学校は大正12年(1923)4月30日に入学生204名でとにもかくにも出発した。99年前の本日である。しかし校長も校舎も間に合わず高野線の我孫子駅と沢ノ町駅の中間付近の墨江村の元工場の空建屋を使ってスタートしたことは前号に詳述した。私の疑問は何故校舎が間に合わないほど急いで開校したのだろうか、そこである。中学校の設置出願が大正12年2月28日、設置の認可が3月31日、大阪府から大島鎮治教育主事を「校長事務取扱」でお迎えしたのが4月17日、そして沢之町の仮校舎での入学式が4月30日だから新幹線以上のスピードで走っていたのが容易に想像出来る。いかにもバタバタした感じである。 

当然数年前から中等学校設立構想はあった筈であり、学校建設の話が急に出て来る訳もない。今となっては当時の詳細な状況を知る由も無いが私はある文献や関係書類を探し出し調べてみると、当時の「社会全体の教育振興機運」みたいなものを強く感じた。「何故、浪速中等学校はこの地に誕生したのか」をまずまとめておかねばならない。長い鎖国の夢から覚めた我々の祖先は江戸時代から明治への「ご一新」を合言葉に新しい国つくりを目指した。富国強兵を図り、欧米列強に肩をならべるべく「坂の上の雲」に向かって走り出した。勢い国民の間には「欧化万能」の風潮が生じたのは止むを得ないことでもあったろう。とかく日本人は流れに乗り易い国民性を有している。 

当然このような社会風潮に対して当然「日本人の道統を再認識」すべきと機運が生じてきたのも当然の流れである。「日本は日本であり日本人は日本の歴史を忘れるな」ということであろう。このように必ず「反動」と言う流れは起きることが自然であり、このことは現代社会とて変わりはない。そのような人々は国民に対する教育の重要さを考え明治天皇に、明治23年10月「教育勅語の煥発」を仰いで「日本人の道義の指針」を見ることになった。話は変わるが例の「森友問題」の時にこの教育勅語が一時的に話題となったが、教育勅語が悪いわけではない。有る部分では精神的に回帰すべきという意見に私も賛成だ。 

かかる時運の時に、同年今の国学院大學の前身である「国学院」と今の皇學館大學の前身の「皇學館」が明治天皇の親王の令達のもとに設置された。こうした流れの中で明治15年誕生した「皇典研究所大阪分所」は明治41年に「大阪国学院」と名称を発展的に改称し、今日に続く。日清日露の戦争に勝利し、1914年に始まった第一次世界対戦にも参戦した我が国は戦勝国の一員として経済的にも恵まれた環境となり世の中には軽佻浮薄の風が一斉を風靡したと書く識者も多い。良い表現を使えば「大正ロマン」と騒がれた時代に大阪国学院は浪速中学校を誕生させてくれたのである。これが99年間、今に続き我々はここで働いている。言わば大阪国学院は我々の学校の「生みの親」であり、今後ともこの関係が切れることはない。本校は未来永劫、神社神道を建学の精神に持つ私立学校なのである


 
私は貴重な文献を見つけた。「30周年記念誌」であるが、その中の初代事務取扱の大島鎮治氏の記事で全てが分かる。本校が誕生した大正12年当時、大阪府は五ヵ年計画を策定し「中学校大拡張時代」に備えることにしたのである。私の前任校で今の府立高津高校も前身は大正7年に出来た旧制高津中学校なのである。とにかく「明治末期から大正にかけて旧制中学校はどんどん出来ていった。」そのような時代背景の中で神職養成機関でもあった大阪国学院は「ちゃんとした私立中学校を作ろう」と判断されたのである。直接的には日本人の道統を再認識するという明治以来の機運が引き金になり、第二はここが立派なのであるが進学を志ながら不幸にして家庭の事情で進学し得ない児童等を救うと言う社会的要請に応えんとした大阪神社界の人々の宗教的動機もあったと50年誌に明確に書いてある。