2024年1月23日火曜日

「年寄りの冷や水」とは言われたくないから!

 「年寄りの冷や水」という言葉がある。老人が若いものの真似をし、冷えた水(又は湯冷ましで無い水、なお、「冷や水」は江戸期から明治にかけての嗜好品である「砂糖水」の別称であり、これを指した可能性もある)を飲んで腹をこわすことから、年寄りが、歳も弁えず若い者の真似をすると碌なことが無いという意味だ。自分はまだまだ若いと虚勢を張って若者と張り合ったのは良いが結局最後までは出来なかったたり諦めたりすると「年寄りの冷や水」と言われる。自らを失敗に追い込むような行為のことで同義語も多い。年寄りの自殺行為、無謀とか、飛んで火に入る夏の虫とかだ。年寄りの冷や水の言葉には酷い言葉ばかりで、誰も「歳なのに良くあそこまで頑張ったわね」などと優しい言葉はかけてくれないのが普通だ。恐らく蔭では「老人の跋扈」とも言われているに違いない。

私は今年から今日の「耐寒行事」である「葛城古道を完全踏破」のトレッキングに参加することを諦めた。残念でならないが諦めた。昨年の同時期の「山之辺の道完全踏破」で私は歩きながら「ぼつぼつこの行事からは引退時期かな」と悟ったからである。全行程16キロの最後5キロで本当に「くたくた」に消耗した。初めての経験であった。桜井市の大神神社から天理市の石上神宮までであったが最後の3キロは自分で涙が出るくらいフラフラになっていた。この時に「もう17,18歳の生徒と共に歩くのは限界かな」と感じたのである。従って今年から止めたのである。万が一途中でギブアップし先生方へ迷惑をかけてはならないし、何時も元気な理事長を見せつけている生徒に幻滅を与えてはならないと感じたからである。年寄りの冷や水と言われたくはない。


 毎日、毎日の授業を受け持つ教員と違って学校という職場は「管理職」になると生徒との直接的な触れ合いは激減する。逆に学校の管理職は直接的に向き合う相手が生徒から教員になると言っても過言ではない。私みたいな理事長や学院長などの組織のトップの職責にある者は生徒との触れ合いは月度一回の「学院長講話」でしかない。それもマイクを通して語るだけだ。だから私は校長兼務の時代も今も修学旅行や耐寒行事などには「生徒に混じって行動する」ことを最優先にしてきた。この重要さや楽しみを深く知っているからだ。以下の写真は昨年のものだが本当に生徒は可愛い。男子生徒も女子生徒も私に声をかけてくれ、スマホでのショットを求められたりして、非定常な一日であるが、それが実に気持ちが良いし、頑張らねばならないと自分を鼓舞出来る。しかし昨年、私の如き年寄りは若者の中で若さを取り戻せるが、それも限界がある事を知った。


しかしせめて今日の耐寒訓練に生徒に付き添う先生方を激励することは出来ると早朝、学校車で出発場所である葛城市の忍海駅に走らせた。本校の教員は平均年齢が38歳と若く、皆さん溌溂として生徒の到着を待っていた。高一、高二の総勢1738人の生徒と教員98人が今日は古道にある由緒ある神社を巡りながら歩くのである。私は先生方に対してこの年に一回、交互に行う「山之辺の道」「葛城古道」に至った経緯を話し、先生方も久し振りの非定常を楽しみながら良い一日となるようにと述べ、学校に戻ったのである。車の中で足腰は弱ったが「まだまだ頭と心は若い者は負けない」と自負しながら、「引退はまだまだ早い」と自分に言い聞かせた。