2024年7月23日火曜日

「学院曲 海道東征浪速と浪速の東征門」

 「海道東征(かいどうとうせい)」は北原白秋詩、信時潔曲による交声曲(カンタータ)である。1940年(昭和15年)に皇紀2600年を祝賀する「皇紀2600年奉祝曲」として作られた。白秋晩年の大作、信時の代表作である。私はこの名曲をご遺族のお許しを得て学校の吹奏楽版「学院曲」として編曲し、式典や樫原神宮への奉納演奏など、今や本校しか持ち得ないこの曲を縦横無尽に使い神社神道の学校としてのアイデンティティを高めている。役員の中にはこの曲を聴いて涙ぐむ宮司さんもおられる。私もだ。 

私は新校舎とグランドの境界に大型バスが楽に出入りできる門を作った。とにかく拘ったのは門の大きさとその名称である。南海バスさんに頼み、何回も入船、出船で門の出入りを確認して現在の場所と大きさになった。名称は秘かに考えており、「東征門」とした。そう、初代神武天皇が建国の為に海道を東に向かって進んだことにちなみ,東征門と名付けたのである。本校では正門を除き、あらゆる門で古事記や、日本書紀所縁のネーミングを付けている。「北辰門」「西関門」「天の岩屋戸門」等々である。 

私は市内「浪速区」に住んでおり、まさしくこの浪速は古代大阪の代名詞である。勤め先が浪速学院、浪速高等学校、浪速中学校であり、このご縁から、この「浪速と言う字」が大好きで気にいっている。後輩達には「決して学校が吸収合併されてこの浪速の名前が無くなるようにはなってはならない!」と厳命している。ところで私は趣味と言うか健康の為に時々近隣を歩いたりしているのだが昨日「浪速小学校と言う名盤」を見つけた。ただし読みは「なにわ」ではなくて「なみはや」とわざわざフリガナを付けていた。中央区日本橋の市立の小中一貫校であった。私はこの名盤を観てとても親近感を持ち、嬉しくなった。 

難波(なには)の碕で祭祀を行ったカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は、現在の東大阪市の日下あたりに遂に上陸を果たしたと日本書紀は記す。目の前に迫る生駒山を越えれば、日向でシオツチヒコに「東に美地(うましつち)有り。青山四周(あおやまよもにめぐ)れり」と教えられた「大和の地」である。「大和はうるわし」、日本国建国の地である。徒歩で生駒越えを試みる一行を先住民のナガスネビコが待ち構え、戦を仕掛けた、と古事記は記す。東征で初めての戦端が開かれた場所は現在の東大阪の孔舎衛坂(くさゑのさか)で、生駒山の西側である。そこには今も「聖蹟伝承地として石碑」が立つ。白秋はこの「浪速(なみはや)」の呼称を海道東征第7楽章に2回も入れている。

 今朝は伊勢修養学舎で高校1年生250人がバス6台に分乗してこの海道東征所縁の「東征門」を出て伊勢に向かった。「浪速の地から伊勢は東に位置」し、まさしく生徒達にとって厳しい伊勢での心の修養に向かうのだから私は必ず東征門を出でてこの「自分との戦に勝ってくるように」との思いを込めて手を振り生徒を見送った。