2019年10月31日木曜日

「偶には緊張する場面があっても良い!」常勤講師の公開授業参観


ここ最近、集中して常勤講師の先生方の「公開授業」を「参観」している。昨日も1件、今日も2件ある。要請があれば私は万難を排して参加する。極めて重要な学校長としての責務だからだ。見学ではない、参観である。見学は文字通り見て学ぶだが私が学ぶべきものでもない。常勤講師の先生方の授業を観察して評価をするものである。公立時代を経て通算17年間も校長として先生方の授業を観て(見るではない)来たから、「授業力の力」は分かる。教員毎の授業力の差異は歴然として分かる。





授業の参観は来年4月の「専任教諭採用」の大きな評価条件である。本校では原則3年を区切りとしてその常勤講師の先生の力量と「伸びしろ」、そして「お人柄」を見させて頂くのだ。即ち「総合的、複眼的考察」で検討するのだが、校長の公開授業への参観要請には最終的に人事担当の副校長の推薦とアレンジがあって初めて私は教室に行くのである。「なんのかんの言っても」教師の本来業務とは「授業と授業力」である。生徒に教えて定着させる、学習への意欲を湧き立たせる、知的な未知なるものへの遭遇と知った時の喜びを伝道するのが学校の教師だ。





まずその人にとって元々「蓄積されたもの」が大事であり、これを有している人は強い。しかしポテンシャルが高いからと言って「良い教師」とはならない。社会が変わり、親が変わり、生徒も変わっていく中で「教師は生涯学習の職業」である。「謙虚」で「情感あふれる人間性豊かな人」が結局は生き残る。私の結論である。社会から「先生、先生、先生・・・」と言われて増長し「天狗になって」、演歌の一節ではないが「昔の名前で出ています」教員は結構多い。まず、「徹底した教材研究」が必要である。これがいい加減な教師の授業は「薄っぺらい」から直ぐに分かる。





今や政府も強調しだしたが、「黒板にチョーク」だけの授業では駄目だ。情報機器を駆使し、50分の授業を如何に「起承転結」して生徒に向き合うかが問われている。これが「ICT授業」であり、「Ed-Teck」といわれるものである。先生方も大変だが教育は国の根幹である。幾らAI(人工知能)やロボットが進化しても学校の教師と言う職業が無くなることはない。しかしダメ教師は排除されるだろう。学校教育とは教室と言う場所で教師と生徒が見詰め合って、お互いの呼吸を感じながら対話するものである。抑揚のない声のトーンでぎこちない動きのロボットが目の前の40名の生徒に対応することは無理がある。「心の通い合い」こそが教育の真髄である。





公開授業の後、人事担当の副校長と教科主任、当該の常勤講師の先生を部屋に来て貰って「講評」するのが私の仕事である。「気づかせ」「激励し」、奮い立って貰う。しかし私の授業参観に常勤講師の先生方は数日前から緊張しているらしい。しかし「人間にとって偶には世の中で緊張する場面は有って良い」。別に緊張させるために参観しているのではない。生徒、保護者に代わって私が本校の正式クルーメンバーとなる専任教諭を探し、採用し、育成するのは私立学校にとって最大、最重要なテーマであることは間違いないからだ。つまらない先生と言われる人を定年まで雇用するのは、最大の学校の不幸である。