「長嶋茂雄さんが亡くなられた」。おしゃべりで言葉大好き人間の私でも今の心中を語る最適な言葉が見つからない。多くの著名人で長嶋さんと厚誼のあったお人は「一つの時代が終わった」とか言われていたが、私もそのように感じる。幼い頃から長嶋さんのあのプレーを見て、又存在そのものに対して子供心に憧れ元気付けられた。選手時代も監督時代も長嶋さんがテレビに映られた時は「じっと」画面を見つめ、母からそして妻からも「長嶋さんが大好きなのねー!」と良く言われた。そう私は「長嶋茂雄さんが大好き」だった。巨人は嫌いになっても長嶋さんは変わらず大好きだった。この大好きだと言う言葉以外に今語る言葉はないことに気付いた。
最後に今や噺家というよりタレントに近い立川志らくさんが「長嶋茂雄と呼び捨て」にして何かのコメントを発し、バッシングされていたがその時に師匠はイチロー、裕次郎などと著名人は呼び捨てにするものだと反論して書いていた。彼も長嶋さんが好きなのである。しかし私は彼の論点は少し違うと思う。私は故人になられた限り神様や仏様になられた直後の事であり、同じ時代を生きてきた方、そして今亡くなられた方については「さん付け」で呼称したいと思う。今朝の各紙で見出しは全てさん付けではないか!あの読売もさん付けだ。
平安時代の源氏物語を書かれた紫式部のことを紫式部さんとは誰も言わない。「雪国」を書いた川端康成をさん付けでは呼称しない。昭和、平成、令和の3世代を「常に目の前の事に一生懸命に生きた長嶋茂雄さん」には亡くなられた丁度今はさん付けの方が気持ちが伝わるのではないか、時代が進み、後世呼び捨てになる時代は来るだろうが、それまではさん付けが良い。それがせめてもの大好きだった故人への尊崇の気持ちだ。長嶋茂雄さんは神様になられた。私は学院神社にお参りし、ご冥福を祈った。