2021年12月16日木曜日

文武両道、文武両立

 この秋に行われた今年の「第二回実用英語検定」で特筆すべき生徒が出て来た。高校3年生のM君である。彼はⅡ類在籍生徒で3年間硬式野球部に所属し活躍し、この度、英検で「準1級」を取得した。この準1級と言うのが凄いことなのである。高校卒業レベルでは2級取得が標準とされており、準1級は大学中級レベルである。一般社会人の合格率が大体16%程度の難しい試験で、英検準1級を保持しているということは例えば企業に入っても英語を必要とする場所に配属されたり、海外勤務なども優先的に有り得るというレベルである。3年間野球で汗まみれになりながらもコツコツと英語を勉強し、将来にわたって「語学の学びを深めたい」と志を立て、クラブの傍ら一生懸命に勉強した。そして進学する大学は「関西外国語大学」に合格し既に決まっている。

素晴らしいではないか。「奨励賞に値する」と考え学校長から支給するように英語科の教科長と英検担当の教員に伝えた。学校には「文武両道」という言葉がある。偶に「文武両立」という言い方もあるが基本的には同じ意味である。意味は文は学業、武はクラブ活動であり「勉強と部活の両立」と解釈され、単に学業だけが優れているのではなく、クラブ活動などにも頑張って欲しいという意味である。そのクラブ活動も運動部のみならず文化系クラブも当然入る。前述したM君はまさに文武両道を実践した生徒と言える。私はクラブ活動の意義を深く自覚している。クラブ活動から受ける恩恵は極めて大きいからである。それは大学を卒業し社会に出ても成長期に学業以外に励んだ経験は役に立つことを知っているからである。

 


11時から年明けの成人式に関連した本校独自の企画である「二十歳の集い」の為の学院長ビデオメッセージの撮影があった。これは本校卒業生で丁度20歳になったものを集めて母校に帰還させ自分の原点を改めて知らしめ、今後を自覚させるという内容のものであるが、昨年に続いて今年もコロナ禍で中止せざるを得なく、やむなくビデオ配信としたものである。私が述べた要旨は以下のようなものである。私より約半世紀も若い人たちへのメッセージには深い感慨がある。

 


皆さん、お元気ですか?理事長・学院長の木村です。この度は、二十歳の成人、心よりお慶び申し上げます。(以下中略)

皆さんの前途はきわめて明るく有望です。この機会に自分の立ち位置を知り、志しを再確認して欲しいと思います。生きる術と自分の存在価値を、更に更に高めていってもらいたいと思う。その為にはまず目標に向かって、努力しなければなりません。有る時は「耐える」ことも重要です。ここにあるのは私の好きな備前の焼き物です。土をこね、形を作り、不要なものを削り落とし、素焼きし、最後は本焼きと言って1240度以上で焼き締められ最終完成します。それが存在感を発揮し、威風堂々と光り輝くのです。焼き物は何か人間の成長過程に通じるものがあるような気がします。 


君たちは 本校が誇りとする卒業生です。困ったことがあったら何時でも母校に来て欲しい。私たち教職員は全力で君たちを応援しています。令和5年には創立100周年を迎えます。その時には皆さんと共に、100年間、この住吉の地で生きてきた君たちの母校をお祝いしたいと思います。そして今後とも21世紀に燦然と輝く学校づくりを卒業生のみなさんとともに作っていきたいと思います。本当に皆さんとお会いしたかったのですが、是非、この動画を見て、自分の若かりし高校時代を思い出し、原点を確認して欲しいと思います。それでは「バイバイ、元気でな!」



2021年12月13日月曜日

浪速国際コースが今ホットな話題に!

 「シンプル イズ ベスト」という英語がある。Simple is Bestだ。この意味は単純素朴であることが最良である、という意味の英語の表現であるが、シンプルとは、「純粋な」「すっきりしている」などの良い意味と、「お人好しの」「つまらない」「無知な」などの悪い意味を併せ持つ言葉である。大概の場合は良い意味で捉える方が多く、複雑な事象を、回りくどい言葉を使うよりも単純明快な言葉で表現する方がより分かり易いという事である。私は今「しみじみと」2年前の事を思い出している。浪速高校も「ぼつぼつ」新しい科コースを作るべく「名は体を表す」との思いで、この新コースの名称を関係教員に諮問した。出て来たのは「異文化を理解するコース」とか「国際理解促進コース」的なものばっかりで私が断を下し、「浪速国際コース」とし2019年4月11日の職員会議で発表した。名称もシンプルイズベストである。



 
2年経ってこの浪速国際コースの第一回生が具体的に活動し始め、11月には修学旅行に置き代わる「語学研修」を初めて国内の富士山の麓で打った。これはコロナ禍でやむなく河口湖傍の某大学保有の研修所での合宿に置き換えたもので、当初は国際的に有名な英語研修地のフィリッピンのセブ島で行う予定だった。今年の入試説明会から国際コースの説明が具体性を帯びて話が出来ると考えた入試広報部は動き始めたのである。第4回説明会ではこの語学研修に参加した生徒の感想文が読みだされ、多くの受験生や保護者の心を動かしたのだろう。今朝ほど報告を受けた保護者アンケートに拠れば、その反響がすこぶる良く、当初説明会後の「個別相談会」には当初応対する担当者を入れていなかったが、急遽国際コースの主任教諭に入って貰って受験生と保護者対応に当たったのである。


 
この浪速国際コースは本校が10数年ぶりに打ち出した新科コースで2年次に上がる時に全生徒から希望を取り、学力やその意思を確認して2年生から約40名程度の募集を行う。今年が初年度で最終的には高校2年生18人でのスタートとなった。この18人が凄いのである。全員が難関私立大学の英語専門の学部に進学するか、海外の大学に進学する生徒ばかりである。行く行くは英語を駆使して社会で活躍する志の強い生徒に絞っているのであるが、このコースの担当教諭は英国ケンブリッジ大学の認定する資格を有した「いわばバリバリ」の英語の達人である。


 


今回の研修会に参加した生徒のアンケートを読むと素晴らしい成果で「少数精鋭」「英語のみの毎日」「一方通行だけではなくて生徒間のやりとり」など様々な工夫により短時間で英語に自信が持て具体的にその成果が出ている。そのような活動の次のステップとして今「海外の大学との連携」に走り回っているところであるが、何れにしても21世紀の日本は国際社会の中でその存在感を示し、活躍できる人材が今以上に必要である。本学院は今まで「英語教育の浪速」を標榜してきたが今後とも活動の幅を広げていく積りである。又私は「留学生受け入れ」には積極的であるが更にこの動きを加速するために次の一手を考えている。他の私立高校も生き残りの為に様々な事を考えているだろうが、私は今後とも「ニーズとシーズ」を考えながら単純明快にこの学校のあるべき姿を目指していく。その為には科コースの改編には積極的に対応していく。例えばそろそろ「スポーツ科コース」があってもおかしくないぞ。来年早々には豪華極まりないゴルフ部の為の「産土ゴルフ練習場」のお披露目をする。道具は揃った。

2021年12月11日土曜日

「新しもの好き」

 本日14時からは今年最後となる「浪速高校第4回入試説明会」の日であった。今年から始めた新しい形の「WEB申し込み」では何と、何と想像以上の受験生や保護者が予約して頂き、集まって頂いた。今回の目玉はこれも新しい形である「ライブ中継」である。学校から数十キロ離れた堺市美原区の「高天原スポーツキャンパス」で期末試験の済んだテニス、ラグビー、陸上競技部の部員が施設の実態をライブ映像・動画で流した。最初の試みは修学旅行先の大宰府天満宮から、そして前回は多聞尚学館からと入試広報部は今や「お手の物」となった方式を駆使して受験生に訴えるのである。先週の多聞尚学館を中継では、並み居る受験生と保護者のアンケート結果から見ると「本校のICTの極限」に驚いたとの賛美オンパレードであった。新しい形は見る人に感動を与え、映像には「嘘偽りの無い真実の姿」が映し出される。入試広報部と情報企画部、よくやった!素晴らしい。 



「新しもの好き」という言葉がある。大阪弁では「新しがり」「新しモン好き」「新しがり屋」か?他に有るのか、知らない。この言葉は良く言えば最新の流行などを次々に取り入れようとする人のことであるが、とにかく「新奇なものに心が惹かれるさま」を言う。一方この新しもの好きは、必要かどうかを度外視して新製品などをついつい買ってしまう傾向などを指すニュアンスもあり、どちらかと言えば否定的である。「初物食い」「初物好き」「目新しいものにすぐ飛びつく」「目移り」「浮気性」などの否定的言葉も極めて多い。しかし私は「新しもの好き」の人や組織を高く評価する。「新しもの好きが世の中を変える」のだ。私は入試広報部長に今後とも新しもの好きで行くようにアドバイスした。




歴史上の人物で新しもの好きは何と言っても戦国時代に生きた「織田信長」だろう。幕末維新の「坂本竜馬」を挙げる人もいるだろうが、確かに優劣はつけ難いが私は信長に軍配を挙げる。信長は南蛮貿易を重視し、キリスト教の布教を許し、常に地球儀が側に置いていた。鉄砲を戦争に取り入れ、刀槍の世界を一変させた。今に続く「中央集権制度」を取り入れ、政治の動きを何倍も何倍も加速させた。「楽市楽座」で経済の循環を図り、人材登用も出自不問で農民上がりの秀吉を取り立て活躍させた。これ以来、身分の低い者でも日の目をみるようになった。かく言う私も新しもの好きである。信長を巨象とすれば私如きは蚤以下であるが、それでも学校に「新しもの」を取り入れて来た。とにかく新しいものが大好きである。 


新しいものが現状を変えるのである。私はこの15年間で本校教育の中味、ソフトと校舎を含め教育環境のハードを一変した。教職員も現在勤務している教職員の85%以上を変えた。今や昔のものは草一本、石ころ一個本校には無い。それでも変え続けようとしている。現状を変えようとする試みが実は本質をあぶりだすのである。変えようとしない人は現状が最も心地良いからである。それは何もしなくても給料は入って来るから、敢えて苦労をしょい込む必要はないのである。昨年の学校行事の中味をほんの少しでも変えようとする教職員を評価する。学校は「行事消化型社会」と言って20年前、10年前、5年前と全く同じ内容で粛々と行事を済ませることが多い。これは教員が楽だからである。去年と同じだったら誰からも文句は言われない。「去年と同じですよ」と反論すれば誰からもクレームが付かないからだ。だから学校は変わらなかったのである。


 私はとにかく変えよ、少しでも変えてみたらとアドバイスする。この姿勢が教職員に伝播したのだと思うが本校の教職員も少しづつ新しもの好きに変わってきたように思う。典型的な例が前述した入試広報部所管の学校説明会の形である。現在の基本は私が造ったが徐々に進化し続け、彼らは「ネットに拠るライブ中継」という目に見えぬ遠い所から情報を発信する方法を考え出し実践している。「若い世代の頭は柔軟」である。小さな課題はまだあるがとにかくやることだ。やれば次の手が浮かんでくる。本校のICTは教育の方法のみならず広報にも新しいジャンルを切り拓いた。「教職員に告ぐ、今後とも”柔らか頭”で行こう!」

 

2021年12月8日水曜日

「人の話をよく聞く」

 自民党総裁選挙を経て、第100代内閣総理大臣に就任した岸田文雄氏の「売り」は自らが言っておられるように、特技が「人の話をよく聞くこと」だという。これ以来このフレーズは少し有名になってきた。日本語の妙で人の話を良く聞くというと「言った人達の言う事を受け入れる」と誤解されがちだが、決してそうではあるまい。例えば100人の人の話を聞いて誰もが満足する一つの施策を纏めようとしても、それは不可能な話だ。その点、英語は便利で人の話を聞くとは「listen to peoplelisten to others」だから極めて物理的で単純明快である。日本語には人の話を聞くのが上手い、いわゆる「聞き上手」という表現もあり、その究極が「何にも云うな!俺の顔を見ろ、悪いようにはしない」で済ます人もいる。 

いずれにしても人の話を聞くと言う行為は人に良い感情を与え、好かれる比率が高い。この理由は聞き上手な人は「聞き役」になることで、相手を気楽にさせているからだと思う。「大概の人間は聞くよりも話すほうが好き」である。何故なら人は話を聞いている時よりも話している方が心理的に楽であり、悩んだ時など、人に話すと楽になるし、いい事や嬉しいことがあれば人に話したくなることからも良く分かる。これは次のような考えに基づくのではないか。聞いている方、聞かされている方は話している人の話や気持ちを理解してあげなければならないので、話す時よりも負担がかかる。つまり、聞き上手は話している人を「聞くストレスから解放」しているのである。ところが聞く方はその分自分がストレスを抱え込んでいるのだが、その議論は少ない。最も「聞き流す」手もあるが、それが私には出来ない。聞いた以上は動かなければならないと決めつけているから。

私に限って言えば嬉しい時や苦しい時に人に話すと楽になるという経験も無いし、その気もない。生きて行くと言うことは人との関係で、そのような苦しみの中に身を置いているという事だ。苦労が嫌なら金剛山の頂上で「仙人みたい」に生きるしかない。まず自分を強くするしか手はない。私は聞くよりはどちらかと言えば話す方が得意かも知れないが、それは「仕事」だからである。人の話を聞いているばかりでは組織は守れないし、仕事にならない。木村は聞き上手だと言う人は全く居ないと思うが、「どっこい!」、これで結構人の話を聞いている。元々気は長い方ではないが加齢と共に人の話を聞く労力は相当なものであり、自分の残りの人生の大切な一分、一秒を特段、考えもせず、勉強もせず、調べもせず、自分が損にならないように、得するように、一方的に「グダグダ」しゃべる人の話を聞く事はこれはもう苦痛で地獄に近いから止めた。私は心理療養の医者ではない。私は「決めることが仕事」の学校の理事長、設置者である。

 

従って木村流の「人の話を聞く手法」とは①関係の人々に諮問して答申を受け、それを尊重するやり方②プロジェクトを組みその研究結果を尊重して施策に活かす事③アンケート結果から人の話を読みとる事の3点かも知れない。私が多用している手法は答申を受けるである。今日も私は校内理事と一部の関係管理職、指導教諭を呼び「令和4年度からの働き方改革の最終答申」を求めた。この中に令和3年度、この1年間の実践に裏付けされた「学校の集大成の意見」がまとまってくるだろうからそれを尊重したいと思う。彼らはこれが出来る能力有る人々であるし、やるべき責任を有している。従って理事長として出て来る意見を尊重せざるを得ない。これが「私の聞く力」である。



2021年12月6日月曜日

「多事の秋(とき)」

 季節は既に「師走」であり、四季の秋(あき)をとうに過ぎ初冬であるが、妙なる日本語は「秋」を「とき」と読ませる場合がある。この場合は何時でも秋の漢字を使う。例えば「危急存亡の秋(とき)」とかである。即ち秋は穀物が実る季節、つまり万物が成熟する大事な時であることから、「大切な時、重要な時期」という意味に捉えて、「あき」ではなく「とき」と読ませる。他の使い方としては「多事之秋(たじのとき)」がある。まさに12月の学校の先生は「師が走り回る秋(とき)」で「やるべきことが一杯の時」なのである。特に私立中学、高校の教員は今、期末試験、大学受験対応、共通テストの準備対応、年明け以降の本校の入試準備、教員採用とか色々ある多事の時である。12月末には理事会・評議員会もある。 


中でも重要な数値は「来年度の入学生予想」である。この数値が全てに影響を与えるから経営的には「最大の眼目」と言える。幸いにして「コロナは私立学校の優位性」をつまびらかに世に示してくれた。例えば12月4日の産経新聞はずばり「私立志向 コロナで高まり」と書いてくれている。近畿2府4県では年明け早々の115日から一斉に私立中学入試が始まる。本校でも少子化の中であるが幸いにして想定通りの入学者数が期待出来そうであり、ほっと安堵しているところだ。我々の想像を超えて保護者はコロナ対策とオンライン授業など、産経の記事を借りれば「私立中学の手厚い学習環境」を評価している。さすが産経である。この表現こそ、我々の目指してきた学校である。手厚いとは良い言葉だ。

 


高校受験に関して言えば、先週土曜日の第3回入試説明会も多くの参加者を得て良かった。特に「校内見学」「個別相談会」の数が極めて多く、一時期は「待ち」が多く出て大変だった。味の良い有名ラーメン店で客待ちの行列が出来ているという感じである。中学校の進路指導でやむなく来たと言う感じではなく、真剣に「本校を観よう、聞こう」という態度が見て取れたと思う。今年から始めた「WEB申し込み」も形が出来たと思う。これで10月、11月、12月と月に1回行ってきたが、本校は「とどめの一発」を今週末に行う。即ち第4回目の説明会を11日に行うが、何と、何と今朝段階で極めて大きな申し込みがある。




 
しかし入試広報部は「手を緩めない」。今日から12月24日クリスマスイブまで「門戸を開いて」個別相談のある受験生を待つのである。様々な事情が受験生の家庭にもあろうから、最後の最後まで機会を用意するのである。我々は今日から14時から19時まで正門を開いて遅れてくる受験生を迎える。「19時までですぞ!」働いておられる保護者の便宜を考え、私は入試広報部に要請した。私立高校にとって大切な姿勢であり、本校の目指す「至誠」である。そして「人事を尽くして天命を待つ」。昨年の受験はコロナ対策で緊張し、幾分ビクビクしながらの受験準備と会場整備であったが今年は昨年に比べれば特別な緊張感はない。「ニューノーマル」となって形ができたのである。オミクロン株など変異型のコロナウイルスが出てきても負けない学校作りに励んできたが新校舎を基幹として本校は今後とも学校を進化させる。




2021年12月4日土曜日

書道教室 学校の器量

 「書道または書」とは、書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術である。中国が起源であるが、日本においても独特な形態で発展した。書道と言う様に墨を使って文字を書くことは武道、茶道、華道などと同じように「精神性が問われている藝術」なのだと思う。私は着任した平成18年、古い校舎を見て回り、「書道教室」が無いことに大いに落胆した。本校は神社神道の学校であり、全国津々浦々のお宮さんでは掛け軸や扁額に収められた書が多いのに「何故、神道の学校で書道を教えていないの?」と思った当時の感慨は今でも心の奥底に残っている。私の執務室の後ろは伊勢神宮の大宮司様から頂戴した「浄明正直」の扁額がかかっている。これは本学院の校訓、校是である。又事務室前には「常若」の扁額が掲げられている。これは本校名誉理事長である神社本庁長老の寺井種伯先生の書である。 



ある程度の年配層には小学校や中学校で「習字」と言う時間があり墨を磨り、半紙に筆で字を書いてそれを先生から赤筆で手直しされて「字を覚え、上手く書ける」ようになったものだった。当時は町中あちこちに書道教室やそろばん教室が有り、書とそろばんは教育の原点ではなかったか?今やその伝統や風潮は消え去っている。然らば一般教育として書道を学校で教えなければならない。これが改革の原点であった。学校教育における「芸術教科」は主に「芸術三科」と言う様に美術、音楽、書道の事を言う。4科と言えばここに工芸が入るのだが当時の本校には美術教育のみで生徒は全て美術しか教育を受けることが出来なかった。私はこの事実に対して「悲憤慷慨」して改革を進めた。まず音楽教育をカリキュラムに加えて音楽教師を採用した。これはピアノや楽器を購入することで比較的早く実現できたが問題は書道教育であり必要な書道教室が無かったしその場所も無かった。新校舎建設の段階まで待ち、ようやく満を期して私自身が精魂込めて設計した書道教室が完成した。これで書道教育が可能となり、その時の嬉しさは格別だった。

3教科が揃い生徒は選択する機会をようやく持てたのである。部活動としての書道部も出来、活性化してきている。「絵を描くことが好きな生徒」「音楽が好きな生徒」「書が好きな生徒」に分散するもので美術1科目しかないような学校は「情感豊かな学校」とは言い難い。芸術は、音楽や美術などの芸術について学習する教科であり、現行の日本の学校教育制度上、極めて重要なものであると私は認識しており、「あるべき姿」を実現したのである。昨日道頓堀の松竹座の前にある香ギャラリーにて本校書道部の部員が世界平和を祈願した大阪護国神社での奉納書道において指導を受けた書道家の田邊柳奨先生の個展があり私は学校を代表してお花を贈り、鑑賞させて頂いた。

 


田邊先生の書は迫力と細心さの両方を示し、墨と色絵具、様々な筆を使った墨画は心に訴えてくる素晴らしいものであった。このように書は人の心を落ち着かせ、豊かにすることを再確認した。「基本5科目と言われる英・数・国・理・社」の科目は勿論大切であるが学校は塾ではないし、ただ進学だけの目的で存在しているのではない。保健体育科、家庭科なども極めて重要な科目であり、如何にバランスを取って時間配分をしていくか、そこに「学校の器量」が問われているのだ。今後とも器量の大きい「グッドスクール」を目指す。

さぁ、今から3回目の高校入試説明会だ。頑張って本校の器量の大きいところを見て貰わないと❗

2021年12月1日水曜日

「お天道様は見ている」

 今日は12月1日、陳腐な表現だが今更ながら感じるのは「時の経つのは早い」ということだ。歳を重ねるにつれ、その感じが加速している。朔日と言う事で「一斉参拝」の日であった。風が強く、代表参拝の形式で生徒は教室からの遥拝とした。今年は結局全てこの形に終わったことになる。仕方がない。この日は「月度一回の学院長講話の日」である。私が直接生徒に語れる唯一の機会とも言える。やろうと思えば何回でも出来るのだが基本的に学校は校長と生徒の関係が普遍的なものであるから、私が余り生徒の前面に出ないように心がけている。その分校長には校長講話として生徒指導や、教員の行う教育活動全体に目を配って成果を上げて貰わないといけない。明日からは期末試験が始まる。今年もカウントダウンが始まった。

 



私の名刺には理事長・学院長と記されている。これは自分が勝手に名乗っているのではなくて正式に理事会・評議員会で決定された職位である。理事長は学校法人の設置者であり、経営が主務である。財務財政、雇用、人事、投資、施設管理他が主務であり生徒に直接接する機会は基本的に無いと言って良いが、学院長は高校と中学の校長を指揮監督し「教学の評価」を行う重要な業務がある。だから生徒の前に立てる。ただ高校と中学の両方とも直接的には校長が「校務を運営し教職員を監督する」のが法的基準であるが、学院長が教学の中味について「両校長に口出し」出来なければ、場合によっては中学校、高校がバラバラな方向に向かったりし、学校法人は目標を見失い混乱する。今でもそのような学校は多くある。その為に多くの私立は学園長とかの職位を理事長が兼務しウオッチし、指導しているのである。本校は浪速学園ではなく浪速学院だから学院長なのである。

 



今日の学院長講話では私は「お天道様が見ている」「天網恢恢疎にして漏らさず」の格言について話した。母方の祖母や母から小さい頃良く云われた文言で今でも頭にこびりついている。ある程度のご年配の方には直ぐに理解できる言葉であるが、今の若者には分からない言葉であろう。人間の悪事に対して、ほかの人間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く意味で、お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。似たような言葉に「天網(てんもう)恢恢(かいかい)()にして漏()らさず」というのもある。古代中国の「荘子」にあるもので天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるという意味である。 



私の学院長講話にはこのように格言などを流用し生徒の心に働きかけるケースが多い。案外短い言葉の格言はすっと生徒の心に入ることがある。実は少し生徒生活指導に関して、気になることがあったので私は白板にこれらの字を書いて心を込めて生徒に話した。目の前の代表生徒は目を皿にして聞いてくれていたが、教室の生徒も意味は分かってくれたと思う。その他学院長講話としては当然新型コロナの事や修学旅行の総括について話した。修学旅行と言えば今の高校3年生はその機会をコロナの為に失し、昨日PTA会長が1月の卒業式で何か「パーフォーマンス」してやりたと相談に来た事を思い出した。せめて修学旅行の無かったこの学年にPTAとして何かをしてやりたいと言うのだ。素晴らしいPTAである。