敬愛して止まなかった亡き母は何時も私に言っていた。「何で、智彦はあんなに家とか建物が好きなんでしょうね!?」。とにかく私は「家という家、建物という建物が大好き」で建築中の物件があったりすると大工さんや業者さんに頼んで「ずーっ」と工事現場の中に居た記憶がある。従ってこの学校に来てからも校舎は言うに及ばず、浪速武道館、クラブハウス、多聞尚学館、校外施設のふくろうスタジアム、八咫烏テニスクラブのハウス等々作って、「作って作りまくって来た感じ」だ。親しい理事は「木村建設(株)」と揶揄して言われるくらいである。
「多聞楽舎」の工事が遅れてはいるが、何とか月末には竣工できるかもしれない。遅れた理由は天候と施主である私の要望が厳しいこと、それに若い腕の良い大工さんが極めて「丁寧に細工」をしてくれているからである。私の流儀は「良いものを作る」のは当たり前であるが「意匠性」に拘っているからだ。特に家に関しては「意匠性のこだわり」が極めて強い。しかし拘るからこそ良いものが出来るのであって「家というのは自分の分身」くらいに思って作るから良いものが出来るというのが信念である。だから多くの時間を割くのである。
そして大切な事は「家の表札」である。勿論「ネーミング」も重要で私は過去建設した建物の名前は全部自分で頭を絞り、名付けて来た。今回も浪速中学校所属の校外教育施設である「多聞果樹園・農園」に隣接した古民家を購入して生徒の為の休憩・食事場所として、これを「多聞楽舎」とした。要は楽しい場所という意味である。今回、私はこの看板と言うか表札を自ら彫って作る事にした。初めて経験する「木彫り」である。今までは市内の南堀江にあった大阪欄間の伝統工芸士であった山田先生にお願いしていたが、先生が昨年、お亡くなりになったので、やむなく私は初めて挑戦したのである。
先生から直接の指導の機会はなかったが、「見よう見まね」で約2週間かけて彫り進み、ようやく完成した。正直大変だった。細部では酷いところもあるが仕方がない。最後の色付けでは工夫をした。カシューの黒と赤を入れたが楽の字のところは赤としたのである。赤の方が黒より暖かく楽しい感じがしたのである。2色の看板である。新型コロナの影響で2週間の臨時休業となったが、代わりにこの看板が出来た。楽舎の玄関の軒先にこの看板を掛けるが、この理事長木彫りの看板は令和2年3月の臨時休校の時に出来たものだとは後世の人々は知らなくなるだろう。裏側に彫った時代を書いた。しかしこれを外すようになったら学校はお仕舞だから、後輩たちは学校存続のために頑張って欲しい。