「先生、この1年、よく頑張ってくれて有難うございます!今後も頑張ってくださいね。」だけの言葉が通用すれば管理者にとってこれで楽なことは無い。そこには全くお金が介在しないからだ。そして、このような言葉を掛けられた先生の返答は「はい、誉めて頂き、有難うございます。頑張ります」だ。しかしこのような「言葉のやりとり」だけではプロの職業人の世界では空虚である。「評価には処遇」が付いて回って初めて生きた評価になるというのが私の信念である。私は着任して翌年にはこの「人材育成・評価システム」を立ち上げ今日まで続けてきた。丁度今から15年前には公立の教育公務員に初めてこの評価システムが導入された頃で、それまで「学校文化」において「先生の成績評価などとんでもない所業だ!」と反対の声の中で始まったこのシステムを私立学校にも導入すると私は決めた。学校にようやく「社会の常識の風」が吹き始めたころだった。
評価が嫌いな教員は生徒を「通信簿」で評価し、プロ野球選手は1年の成績を「年俸改定」で評価される。良い仕事をする職業人は「実入り」が大きくなるのは当然で良い成績を上げた学校の教師とただただ普通の先生が全員一律で昇給し、差が付かないことが、まかり通っていては良い仕事をした人が浮かばれない。職業人はそれが収入に跳ね返って初めて自分のしたことの成果を実感できる。「人が人を評価する」ことは簡単ではないが、そうかといって不可能な話でもない。全世界、どの社会でも「人の能力は異なり、アウトプットも当然違ってくる」ことに異論をはさむ人は居ないだろう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない社会」に小石を投じなければならない。均質な社会に「さざ波」を立てることが「人材の育成」と「組織の活性化」に繋がる。職場と言うのは甘いところではないことを知らしめなければならない。働くと言うことは収入を得る為であり、それで家族を養い生活が成り立つ。
良く頑張っている人、普通の人、一向に能力を上げる努力をしないパラサイトみたいな人くらいは見分けられる筈で、その1年を通じた成長と業績を公平に他との比較において観察し、評価の差を付けることは可能である。私は評価のポイントとしてその「人材の持つポテンシャル」を見ている。スタート地点を同じに揃えるのは望ましいが、スタート地点が遅れている人には不公平となる。人は生まれながら能力には差がある。幾ら練習をしても誰もがオリンピックの選手にはなれない。分かり易く言えば出来る人には高い目標と遅れている人には「それなりの目標」を立てて貰い、その座標軸の伸び代で評価するのである。従って能力評価と「半期ごとの賞与」とは微妙に違いがある。能力評価は「S,AA,A(標準査定),B,Cの5段階評価」であるが賞与一時金の該当者にはそのようなものはなく「先生、半年ご苦労さまでした。幾分ですが割り増しを付けています」で終わるが能評結果は一生ついて回るものだ。
本日は令和2年度の人材育成・評価システムの最終査定結果の伝達を該当者に行った。陪席は人材育成のセンタ長と常務理事でそれに当該教職員の管理者が同席する。高校の教員であれば高校の校長と言う具合である。私は結果を伝達しお祝いと慰労と激励をし、詳細に今後の給与がどうなるか説明するのである。毎月の給与や半期の賞与、そして退職金算定にまで影響してくる「良い査定」を伝える作業は私にとっても嬉しいものだ。人件費は上がるが学校は教職員の総合力で決まる。良い先生には良い処遇を与え、それなりの教職員には今後更に頑張って貰いたいと思うが故のシステムである。