「曲がりなりにも」という言葉が時々使われる。この漢字は「曲がり形(なり)にも」が語源で、もともとは「曲がった形でも」という意味の言葉である。木材などが曲がった形をしていても、どうにかこうにか使える、ということから、「未熟であっても」「不完全ながら」という意味の言葉に発展したといわれているが、昨日で「曲がりなりにも本校の最重要行事である伊勢修養学舎は無事に終わった。」私は最後となる4班に帯同した。元来は2泊3日で軸となる「男子生徒の禊」「女性生徒の神楽舞」などカットし、日帰りの「お伊勢参り」の形でコロナに対抗し、不十分、不完全ながらも「第67回伊勢修養学舎は終わった」ことになる。似たような言葉だが「まがいなりにも」は使わない。「まがい(紛い)」とは「見分けがつかないほど似せて作っているもの」を意味する余り良い言葉ではなく、意味合いが違う。
それにしても伊勢神宮の賑わいには驚いた。人、人で溢れかえっていた。お伊勢参りは「お蔭参り」と言われ、江戸時代に起こった神宮への集団参詣のことで、「お蔭詣で」とも言われる。神宮前のおかげ横丁は平日にもかかわらず大混雑していた。まさしく現在版お蔭参りが今起きているのである。江戸時代は江戸からは片道15日間、大坂からは5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われているが、江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となったことが背景にある。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになり、伊勢神宮参詣は多くの庶民が一生に一度は行きたいと願う大きな、大きな夢であった。
当時庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かったという。本校生徒は学校の東征門を朝8時20分に出て帰り着いたのは17時過ぎだったから交通手段の発達が社会を変えて来たことが分かる。本校生徒にとって伊勢は物見遊山ではなくて「一種の洗礼みたいな儀式」で身体と心に日本の原点を霧雨の如く浴びて感じて貰う学校行事である。この単位を取らねば卒業は出来ない仕組みとなっている。神社神道の学校に学ぶ生徒として67年間、綿々として繋いできた伊勢参りは曲がりなりにも何とか今年も実施できた。高校1年生はこの伊勢が終わってようやく「浪高生の顔」になると古来言い伝えられている。
本校創立当初の伊勢神宮は「伊勢大廟(いせたいびょう)」と呼ばれていた。難しい字であるが、天子、諸侯の祖を祭る御霊やのことであり、宗廟ともいい、伊勢神宮の別称である。果たして本校は、この伊勢大廟、即ち伊勢神宮参拝は何時始まったのか?着任して間もない頃、私は多くの資料を読み、この答えを見つけ出した。記録によれば創立した翌年の大正13年6月11日から一泊二日で浪速中学校の一期生が伊勢大廟にお参りしている。中学2年生の段階で宿泊参拝をしているのである。想像するに学校が出来、そして1周年が経った頃合に神社神道の学校として伊勢参りを初代の大里校長は始めたのである。そして4期生からは3日間に拡大している。当時の校長先生以下教員の熱気と息遣いが感じられるではないか。素晴らしい。本校は当時から伝統的そして革新的な学校であった。これが今に脈々として繋がっているのである。私は本校の先達を誇らしく思う。我が人生の晩年にこの素晴らしい学校に関与出来て私は幸せ者だ。