2022年5月1日日曜日

浪速100年アーカイブ③ 本校設立、3人の恩人

 令和4年5月1日、本校は今日、この日を「開校記念日」として休日にしている。遂に100周年は1年後に迫った。明日からはカウントダウンである。今日のアーカイブは「3恩人」について記そうと思う。行政側の大阪府はアーカイブ②で記した大島鎮治氏であるが、肝心の設立母体側の神社界の中で浪速中学校建設の中心にいた人物は当時大阪難波八坂神社宮司で大阪国学院理事を務められていた「浅香千速」氏と言う。着任した当時、調べていく過程で初めて私はこの人物のお名前を知ることになった。 

何故私が知りもしない浅香氏のことを書くかというとアーカイブ②で記した初代事務取扱の府庁の役人だった大島鎮治氏が言葉を尽くして賞賛されているのである。私はこの文章から浅香氏の働きに思いを致し頭が下がる思いがする。大島氏は書いている。「国学院内部の種々の苦悩難関を突破して創立を軌道に乗せたのは実に氏の功労の大なるがあった。氏は本校のために(次の文章がすごい)心と物と時間とを如何に犠牲的に注がれたかを私は親しく知っているのである。実に氏は浪中創立の恩人として忘れることはできない人だと思う。」

 浪速100年の歴史を辿ると、大島氏、それに浅香氏以外にもう一人本校には恩人がおられた。これも大島氏の残した記事からの出典であるが当時の依羅村(よさみむら)村長の東野修一郎氏である。氏は学校の渉外主役者で校地の設定、工事に関する事項について非常に尽力せられ、氏の腹と腕と名によって本校が実現の運びを獲たというべきでしょう。氏は学校として忘れられない功労者であります。となる。腹と言うのが面白いし分かるような気がする。知事、市長、町長、村長など「首長」と言われる人は「腹が太くて大きく」なければ務まらない。 

ここで更に大島鎮治氏について記してみたい。当時の大島氏は大阪府教育主事の肩書きであった。府の「学校課」という職場の役人であったが当時の内務部長から「浪中の創立の校長事務を執れ」と委嘱を受けて任に付いた人である。大島氏の言葉を借りれば「学校内用方面の全責任を負うようになって学則の制定、職員の選定、生徒の募集等兼務の私には容易な仕事ではなかった」と述懐されている。大島氏は1年半の任期を過ぎて府に戻られるのであるが、その後80歳の時に浪速高等学校の30周年記念祝典に参列されている。その時の氏の残された発言録が「歴史の証言」となっているのである。艱難辛苦の中で氏は本校の体制固めに奔走し、設立時から3年目の大正15年には教職員も徐々に増えてきている写真が残っている。現在の本校もそうだが、何時の時代も良い人材の確保には苦労が伴う。 



しかし考えてみると本校は設立に際し、大阪府から有為な人材を派遣されるほど格式の高い学校であったことが分かる。このアーカイブシリーズにて触れるが、私はどのような人々が本校の校長に就任されているかでその事が大変良く分かる。いずれにしてもどの残された記事をみても「浪速中学校設立に貢献あった三羽烏、三賢人、三偉人は大阪府の大島鎮治氏、大阪国学院浅香千速氏、依羅村村長東野修一郎氏」であることは間違いない。勿論他に多くのお方のご理解とご協力があっての事だが、前記3人の働きで本校は「産声」をあげたのである。 

99年後の今、5月1日、私はこの学校の理事長・学院長としてその重大な任を背負っているが、99年目の今日この日、前述した3人の恩人を思い、深く頭を垂れて感謝の気持ちを天に届けたいと思う。貴方方のお陰で私たちは99年間にわたって世の為、人の為になるような有為な人材を世に数多、送り出し、教師という職業に誇りと責任を背負っている先生方の生活の基盤がこの学校によって保たれ、社会人として恥ずかしくない生活が可能なることは一重に貴方方がこの学校を作っておいてくれたからである。