2024年11月18日月曜日

「生日の足る日、足るを知る」

 「足る日」という言葉がある。(たるひ)と普通に読む。神社の宮司様が祝詞などで良く使われている言葉だ。意味は「物事の十分に満ち足りた、よい日、吉日」の事を言う。「今日の生日(いくひ)の足る日に」は祝詞・神賀詞の常套語だと思う。一方古代中国からの諺で「足るを知る」というのもある。「知足」ともいう。身分相応に満足することを知るということを意味するし、現在の状態は足りているということを知り、それ以上は求めないようにするということを意味する。足るを知るは仏教の教えが由来であるとされており、仏教の経典に知足という言葉が出てきている。これが由来となり老子など様々な人々がそれぞれの解釈で広めていったとされる。 

「生日の足る日」を学んではいるが「足るを知る」は私など凡人には難しい。現代社会で広く用いられているこの”足るを知る”は、老子の「足るを知る者は富む」という考えからあるとされており、これは「満足するということを知っている人」は、貧しかったとしても精神的には豊かで幸福であるということである。老子は、人間の欲求や欲望は際限が無くどこまでも沸いてくるため、現在よりも上を求め続けるならばいつまでたっても幸せになることはできないとしていた。欲によって人生を振り回わされたり、人と争わないためにも今の状態に満足することが大切であるとする。しかし私には「足るを知る」までの境地になるには、まだ人間的に未熟であり、此処のケースに拠るけれども、まだまだ時間がかかりそうだ。 

「一気呵成」にという言葉があるが、私にはよく似合う好きな言葉である。意味は一息に文章や詩を完成させること、転じて「物事を中断せずに一息に仕上げること」である。同類に「一気に、一息に、畳み掛けて」という言葉もある。英語にもあってこちらの方が分かり易い。「at a stroke(一撃で)」「at a breath(一息で)」だ。一撃というとても表現が面白い。突き詰めて考えれば神道の「生日の足る日」も老子の「足るを知る」も根源では同じ意味だと思う。最大限の努力をし、その結果であれば、それを受け止め満足すべしと教えているのかも知れない。 

しかし人間はもって生まれた能力差もあり、時に煩悩に見舞われる。私などは結果としてその結果数値や状況に大抵の場合満足できない。もっと上がある、高みがあると何時も思う。要は「満足しない」のである。問題は頭を絞り、考え考え、考え抜いて「最善、最大の努力をしたか?」が先に問われるべきでないか?成果を上げるのは完全主義と理想を追い求める者だけの特権ではないか?考え、考え、動き、動き、最後は結果の数値を凝視し、結果を受け入れ、希望より離れていればそれは組織を束ねている自分自身への叱責となり、これが組織を鼓舞する次に向かう捲土重来のエネルギーとなるのだ。 


そのような上司に仕えている部下は当然しんどいだろうと思う。しかしその間、自分が成長し、「目の前に自分が採った現在の甘い果実がある」のだという事を忘れないで欲しい。「ぼーっ」として何もやらない人間が足るを知るなどと言ってはならないだろう。今朝の第二回プレテストの受験生解析とその後の分析結果を聞きながら私は関係する幹部教員にこのことを伝えた。「考え、考え、早く動き、すぐに動き、結果の数値を凝視し、次の新たな手を考える」、常に自分自身を革新の中に身を置けと。良くやってくれている皆さんだが彼らがこれで良しと満足したら、その組織はもう伸びない。まだやるべきことは多い。