マスクに「フェイスシールド」では蒸して息苦しく授業にならないと言うので結局これは数日で止めた。教員が倒れたら元も子もない。教室はクーラーをガンガン効かし、換気の為に入口のドアや窓を開け放している。そうすると窓から風が入ってくる。太陽光が眩しいからカーテンを閉めると風の為にカーテンが「ひらひら」するから邪魔になって仕方がない。それで窓ガラスに「UVカットのフィルム」を貼ってと言う。カーテンを使わないのだ。私は教員が望めば「何でもOK」と次から次と対応している。こんな事が何時まで続くのかと嘆息するが今自分だけが「とがった」ことを言っても仕方がないから黙っているのだ。
実業界から教育界に転じて19年目になる。しかしまだ「慣れない感じ、完全に染まった感じではない」ものが心の奥底にある。大学を卒業してすぐ「鉄は国家なり」と職場風土の中で上司・先輩が醸し出す「人間としての幅の広さ」「国際的複眼思考」「滅私奉公」「努力と我慢・妥協」「そして時に諦め」等の精神がゆったりと流れていた大手鉄鋼会社に勤務し、そこで32年間一生懸命に働いた。期間的に短い教育界に未だに感じているものはやむを得ないかも知れない。後10年程度、教育界に居たらそのような感じは無くなるのか、どうか?しかし私は思う。時間の長さではなくて「教育界そのものの閉ざされた単一色の世界」での体験がそのように何時までも私を引きずっているのだ。閉ざされた世界が良い、悪い、の議論ではない。教育界とはそういうものだと思うようになってきている。
新型コロナは学校を大きく揺るがせた。「オンライン授業」が日本全国の小・中・高・大学に突如として大きく登場し「定例席」を確保した。わずか3か月でコロナは「板書という授業」から「デジタル・リモート授業もあるよ!」と学校の文化を変えたのである。画期的なことであった。今後「不登校」という言葉は死語になるかも知れない。学校に来なくても良い時代が来たのである。確かに全員が毎日毎日登校しなくても良いかもしれない。今朝の新聞記事は「教員が人工知能(AI)に教え込む作業」が出始めたとあった。私はこのようなニュースにわくわくする。又時期尚早という事で「9月入学」は延期となったがこの議論が舞台に躍り出た価値は測り知れない。いずれ日本でも「9月入学・2学期制」は実現されるだろう。「コロナという目に見えない大きな爆弾だからこそ学校を変えることが出来た。」
基本的に教育界は極めて「保守的」である。革新を好まない。最初に出る釘は打たれるから「横並び」である。しかしこれも好き好んでやっている訳ではない。毎日毎日田畑に出て「雑草を抜き、水をやり、苗を育てる」農耕民族的作業が教員の仕事だから必然的にそうなるのだ。今回のコロナ禍で社会は経済的に大きなダメージを受けたが「学校の塀の中」は至って静かで、経済的問題はどこにもない。生徒の各ご家庭は大変だと推察するが学校は特権的に守られ家庭から離れた、閉ざされた空間は安泰なのである。私も含め学校に勤務する教職員は今回のコロナ禍の中で「視点を幅広く、大いなる学習」をしなければならない。それは比較的恵まれた環境にある我々の責務ではないか。