アーカイブ⑫に記したように、初代寶來正信理事長はこの後援会について40年史の中に「回想」としての一文を寄せられている。この40年史は私の手元に、1冊だけ残存している極めて貴重な歴史書であり、未来永劫大切に保存していく必要がある。寳來先生は「創立後の苦難時代」として当時の状況を次のように回想されている。少し長くなるが転記したい。
“本校設立者財団法人大阪国学院は当時の社会情勢を憂えて民族精神を基調とする国民教育の必要性を痛感し、一面甚だしい入学難時代であったのでその緩和と言う社会奉仕の一端にもと浪速中学校の設立を企画したのである。そこで資金は広く世の篤志家に仰ぐ方針で敷地は各所を物色の末、依羅村から寄付される依羅池(1町2反12歩)を埋め立て、差し当たりの工事費は財団の基金を一次流用して賄うこととし、設立認可を得るとともに仮校舎で発足、授業を開始するというように頓頓と運んだのであった。然しながら、その後は予定の資金は計画通りに集まらない。工事は進めねばならぬ。結局資金面に行き詰って抜き差しならぬ破目に追い込まれた。背に腹は変えられず無理な金策が続けられ、最後は神社の基本金までも借り入れたのであるが、その整理は永く理事者の頭痛の種となって残った。かくて昭和6年頃の本校は大きな負債を荷おうた上に在校生は少なく最も悲況の時代で一本の煙草、一杯の酒を節約して神職大会に建議案を出し後援会を造ったのもこの年であった。“とある。
以上のようは経済的困窮から大阪府神社界は「浪速中学校後援会」を創設して広く支援の手を内外に求めたのである。昭和6年5月の事である。大正12年に学校が出来て9年後のことであるが、未だ経営は安定せず、苦しかったことが容易に分かる。後援会の初代会長は「石切劔箭神社宮司の木積一雄氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の初代理事長)」と記録に残っている。我々、今の浪速に生きるものとしてはこのような時代の中で如何に多くの人々が本校存続のために辛酸をなめて努力されてきたのか忘れてはならない。石切劔箭神社と言えば私には忘れられない事がある。今から10年前、創立90周年の時に東大阪の石切神社に一人、脚を運び、初めてアポを頂き、全く存じ上げない宮司さんを訪問し、寄付金をお願いした時の事である。気持ちは「恐る恐る」と言うものであった。頼りは初代の浪速中学校後援会の初代会長の神社と言う僅かの縁を頼りに訪問した。
素晴らしい応接間に通され待っていると宮司さんが現れ、「どうぞお使いください」とご挨拶する間もなく「300万円の小切手」が袱紗に包まれて出されたのである。私の話を聞く前に宮司さんは既に用意されていたのである。このような事も申された。「祖父からの遺言で浪速学院に対しての応援を惜しむなと、代々引き継がれ、この言葉は今も生きていますと。足らないようであれば申し出て下さい」とまで、ご丁寧な口調で申され、私は感動と感激で目頭が熱くなった。初代浪速教育後援会長の木積一雄氏のお陰で3代目の宮司時代になっても浪速学院の事を忘れていないのみならずさっと300万円を差し出すような神社は古今東西聞いたことなど無い、初めての経験であった。その後、この宮司さんは私のたっての依頼で現在本校の評議員にご就任頂いており、人物識見共に優れた素晴らしいお方で、我々にとって極めて重要な役員になっている。