大阪府との密接な関係はすでにこのアーカイブにおいて何回も詳述した。相当大きな関与と支援があって本校は順調に歴史を刻み始めた。しかしどうも設置者たる大阪国学院の存在感が薄いようにこのブログを読まれた方は感じる筈である。確かにそのように感じられても不思議ではない。しかし実際は影に隠れて大阪国学院の神職の方々は「血の滲む様な努力」をされていたのである。ただ学校と言うのは今でもそうだがこの時代も「校務を運営する校長以下教職員が表舞台の主役の組織」であって、設立の母体組織は表立って出てこないのである。
又「神社界の気風」みたいなものを理解しなければならない。特に「神職の気風」については私がこの学校に着任して以来感じているのだが、神社の宮司様は「目立とうとしない」「争いは好まない」「一歩後ろに控える」、しかし一方では「義理人情には人一倍敏感で果たす」気風が強い。神職は神様への取り持ち役であり、主役ではないことを心得ておられる。従って噂話にもご自分の名前が出て来るのにも敏感である。神社神道の世界は日本の精神的、歴史的バックボーンであり、あえて「神のみこと持ち」として目立つことは避けてきたと思えてならない。それが浪速中学校の運営にも少なからず影響したと考えるのは私だけであろうか。府立の有名な高校の校長経験者を迎えればそれで完結という話は私も有力な神職の方から何回もお聞きした。しかしそれは昔の話であり、今はそうはいかない。しかし神社界は何時までもそのように思ってきたところに浪速学院の不幸があったのである。
確かに旧制浪速中学校は大阪府神社界が創立した学校であり、戦後は歴代大阪府神社庁の庁長など有力な神職が法人の理事長を務めて来られた。他の理事や評議員も全て神職の方々であった。それで「校務運営」は自分たちが招聘した校長以下に「丸投げ」して来たと言っては幾分憚りがあるが必ずしも間違ってはいない。そこには学校経営という概念は無かったと言っても良い。そこが「オーナー系私学」と完全に違っている点であり校長の力量で土台が揺るぎかねない危険性はある。大正12年の創立以来、昭和20年頃まで実に二十数年、歴代の大阪国学院院長は大阪府の「社寺行政主管の内務、総務、学務各部長」が兼任してきた経緯があった。副院長は社寺主管課長が就任した。加えて「総裁」という職位まで設けて大阪府知事がその任に当たってきたことは既に書いた。 即ちトップと実質的な学校運営は社寺主管課長が担ってきたのである。教育課程も教材選択も、教員配置も確かに神社界の神職の人々に任せていたら一向に学校の設立は進まなかっただろう。学校の建設には「技術」が要るのである。しかしそれも遂に敗戦によって大きく変わった。年表では昭和20年とあるから間違いなく終戦後神社制度の変革に伴って新たな枠組みが作られたのである。即ち組織変更を行い、院長、副院長制度を廃して「理事長制度」となった。余談ではあるが「理事報酬は支給しない」として大阪国学院浪速中学校は創立以来無給の役員によってスタートした。これは有名な話である。従って今日まで本校の理事者の報酬は私を除いてない。世の中にこのような私立学校はあるだろうか。
当に神職らしい物事の考え方であると私は感服した。しかし一方これでは責任ある理事職として業務の責任はどなるとの思いもあって私は就任と同時にこの制度を改めようとしたが結果的に受け入れられず現在に至っている。強いご辞退である。ただ私自身は神社界とは無縁の者であり、外部招聘の理事長であるから無報酬ではない。無報酬なら来る訳がない。当然の事であり、「適切な報酬に見合う仕事を遂行し必ず結果を出す」ということが民間人の私の責務と考え今日まで来ている。
ただ理事・評議員の各位には報酬はないが年に5回程度はある理事会・評議員会の出席においては「費用弁償」として「日当」を出すことだけは認めて頂いた。そしてご退任の時にも些少で恥ずかしいのだが「記念品」を贈呈することとした。それも私の代からでありそれまでは一切そのようなものはなかったのである。とにかく大阪府からの直接的運営から離れて本校は昭和20年敗戦と同時に、言ってみれば「大阪府から独立」したとも言える。国学院評議員会において理事を選出しその互選によって理事長が決定されたのである。「初代理事長の誕生」である。お名前を「寳來正信」先生と言われる。