2022年6月9日木曜日

浪速100年アーカイブ⑫ 初代理事長とその後の理事長

 初代理事長は「寶來正宣」先生である。後のアラウンドでも詳述するが、名実ともに創立時代から戦前戦後を眺めて来られた「大理事長」であった。実に昭和21年から昭和46年現役でお亡くなりになるまで理事長職を25年間も務められた。私が理事長に就任したのが平成18年の冬、令和4年の夏の今までで18年目だから寳來先生に遠く、並ぶにはまだ7年間も頑張らねばならない。果たして身体が持つかどうか?尚この寶來理事長のお孫さんが私の前任の理事長であった堀川(戎)神社宮司の寶來正彦氏であり、現在評議員を務めて頂いている福島天満宮宮司の寳來芙紗子宮司もお孫さんである。 


大正12年設立当時の国学院役員は以下の通りであった。(敬称略)

  院長:平賀周(大阪府内務部長)、副院長:児玉政介(大阪府地方課長)

  理事:武田充忠、松尾幾太郎、浅香千速、渡辺醇、長谷川熊次郎、奥野勝二

それから一挙に戦後になり寳來理事長の誕生となるが、その後を10年単位で理事長の変遷を纏めてみると以下のようになる:

昭和38年当時、即ち「浪速高校40年史」には以下の国学院体制であった。

  理事長:寶來正信、理事:校長平石芳太郎、園 克己、別所貫一、

  それに下のお名前が分からないのだが山畑、薮野、露野、宮脇とあった。

昭和38年当時の理事者の写真が残っている:

昭和48年当時、即ち「50年史」における理事体制は以下のようであった。

  理事長:園 克己、理事;校長浅田光男、高松忠清、長谷川義高、寺井種茂、          加藤知衛、田島 瞳、菅尾竜雄

昭和58年当時即ち「60年史」における理事体制

  理事長:足立信治、理事:寺井種茂、校長一ノ瀬博、加藤知衛、田島瞳、江端市松、岡市正、津江孝夫、玉田義美、丸岡隆二

平成5年当時即ち「70年史」における理事体制

  理事長:玉田義美、理事:岡市正、一ノ瀬博(校長)、加藤知衛、江端市松、友田譲、若宮房又、若宮春典、寺井種伯

平成15年当時即ち「80年史」における理事体制  

  理事長:寶來正彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、大戸道彦、加藤知衛、森山一正、平岡公仲、畦地道俊、津江明宏、岡市正規、村上晃美

平成23年当時「90年史」

  理事長:木村智彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、森山一正、岡市正規、藤江正謹、 小西靖弘

令和5年仮定として、現在編集中の「100年史」

  理事長:木村智彦、理事:宮木嗣弘、南坊城充興、飯田智文、藤江正謹、中東弘、伊藤進、渡邊紘一、梶谷大志

 戦後の話が続いたので話を原点に戻そう。学校が出来たのが大正12年で卒業生を初めて出したのが昭和3年であった。経営的にも苦労があったのだろうと思うが昭和6年5月になって「浪速中学校後援会」が組織されている。後援会組織があると言うのは当時としては珍しいと思い、その背景を探ってみた。初代会長は「石切神社宮司の木積一雄」氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の初代理事長)と記録に残っている。しかしこの組織は40年史の文章によれば「校運の発展とともに解消」したとある。この教育後援会については次回のアラウンドにて詳述したいと思う。