神社の数は、全国に凡そ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い宗教的文化建築物の一つとなっているが、その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われている。摂社末社を含めれば、20〜30万社にも上るとも言われ、実態は明らかではないと思う。「神職の最高位とされる宮司」の数は1.1万人とも言われているため、実際には一人の神職が多くの神社を複数、兼務する形で留まっているのが実状である。その宮司職であるが、「大宮司」「少宮司」という特別な職位があって明治以前は伊勢・宇佐・熱田・鹿島・香取・阿蘇・香椎・宗像などの神宮・神社の「長官」であった方々に許された表現であった。それが今は「神宮」と言えば伊勢神宮を指し、大宮司と少宮司は伊勢神宮にのみ許された職位であると私は知った。私はこの職業に就いて以来多くの知らないことを学んだと言える。
その神宮の大宮司に大切な用件があって急遽21日木曜日、10時に学校を出て伊勢市を目指し、トンボ帰りで学校に帰着した。現在の大宮司は戦後11人目になる久邇朝尊氏であり、当然私如き者が簡単にお会いできるお人ではないから予てより親しくさせて頂いているナンバー2の亀田少宮司さまにアポを取って赴き、「神宮司廰」内の貴賓室に通され恐縮した。久邇さんは7月5日、皇居にて天皇陛下から神宮大宮司の職を任命され就任された。そして同9日、前大宮司の小松揮世久(きよひさ)さんと共に伊勢神宮を参拝し神さまに就任報告を行っておられる。小松さんも久邇さんも旧皇族のお一人で天皇陛下のご親戚であられる。久邇さんは神宮大宮司の大任を拝命した際、天皇陛下より「神宮の祭祀を宜しく頼みます。身体に気をつけてお勤め下さい」とのお言葉を賜り、陛下の神宮への大御心を拝し、責務の重さを感じたと書いておられる。要は神宮は皇室と深い深い結びつきなのである。
過日の伊勢出張の目的は来年4月30日の「創立100周年の周年誌の巻頭を飾るお言葉」を大宮司さまから頂戴する為に少宮司を通してお願いに参ったのである。世の中には「社史」とか「記念誌」とか「周年史(年史)」とかあるが、学校では当然記念誌とか周年誌という言葉を使う。私はこの周年誌を重要視しており、2013年には「伊勢修養学舎60周年記念誌」をまとめた。更にこの年「開校90周年創基131周年記念誌」を編集している。これは3部に分かれた大作で、開校以来のほぼ全てを入れたものとなっている。従って今度の100周年誌は90年から100年までの10年を主軸とし、視点を拡大して「浪速改革の20年の足跡」を纏めたものにしたいと考えている。
しかし通常、社史、記念誌、周年誌の類は「読み物」として余り人気は無く、まして作った人でさえ大体読まない。だからと言って作らないと後世の人々に我々の歴史と言うか足跡が残せない。その理由は書いたものが「乾いている」からだと思う。「自分史」と考えれば周年誌も「情感」が出て来るし、分かり易い。私はこの100年史を「物語」「メッセージ」「ドキュメンタリー」「情感豊か」「いきさつ」「裏面史」「背景誌」「あの時私は・・」等々の読み物として完成させたいと思う。
従って多くの専任教職員から「生の原稿を頂き載せる」のである。詩人の俵万智さんが謳った「“この味がいいね”と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日」のように「あの時に私は決めた だから今もこの先も浪速一筋」くらいの情感でこの20年の自分史を纏め一文を求めたいと思う。さすれば100年史は呼吸を始め、未来永劫自分史として残る筈だ。それにしても神宮会館の館長さんには事前に司廰に話を通して頂いており会談は順調に終わり、おかげ横丁で買い物をしてその後遅い昼食の「生シラス丼」を同行してくれたKさんと食した。旨かった!流石に伊勢は「御饌の国」と言われるだけのことは有った。何でも旨い。