人事に関して重要な案件があって中高の校長と中学の教頭を呼んで彼らの意見を求めた。まだ具体的な事は書けないが教職員の人事は極めて重要であり、採用権者の私が一人で決めて実行することは可能ではないが、やはりここは両校長の意見を求めると言うのが正しい。150人を超える教職員の数だから私が一人一人の「日常ビヘイビアー」を詳しく知っている訳でないから、自分が有している該当人物評が適切か、不足かあるいは過剰かなどは日常よく接している管理職の意見が参考になる。しかしこれはあくまで参考意見であって最後は一人孤独の中で決め、その人事の責任は人事権者たる私にある。手前味噌かも知れないが殆ど私の評価と懸念は管理職の観察結果と合致している。それはあらゆる手段を講じて人生経験の長い私がこの学校に流れている「声なき声」「空気」を間違いなく捉えている事と、各管理職の能力が高いからだと自信を持って言える。それが出来ないようでは理事長や管理職は務まらない。
「声なき声に耳を傾けよ」と言う言葉があるが、学校ではこれほど難しい話はない。「声なき声」とは、口に出さない押し殺した声のことで、心の中には確かに意見を持っているのだろうが、それを堂々と表立って口にはしない人は世の中に大勢居る。英語では「サイレントマジョリティー」という。政治的な意味合いもあり、物言わぬ大衆を意味する言葉であり、政治色を持たない中立的な人との、意味も含まれているらしい。しかし為政者にとって「声なき声」に耳を傾けるのは難しい。声あり声に耳を傾けるのは当たり前だが声なき声に耳を傾けるのはとてもしんどいし、私に関して言えば声なき声は幾分卑怯者だとの思いもある。為政者が「説明責任」として明確に大声を出して方針を打ち出しているのだから聞く方も「声を出して」自分の意見を出して欲しいと思う。声なき声は多くの場合「反対」の意見が多く、これを口に出せば「損をする」と思っているから声なき声になっているのではないか。
学校の教職員にはこの声なき声が本質的に多いと思う。これらの道を歩んできた教師上がりの管理職が「黙って自分の背中を観よ!」だけでは務まらない。管理職は「声あり」でなければならない。何故だろうかと分析しているのだが、教師と言う仕事が余りにも専門職過ぎて「一般社会の常識」の濃度が人によって違うところにある。要は物事の味方が浅く、「自分にとって損か得か」が基準になっているのではないか。分からなければ分からないと言えば良いのだがそれが言えないから黙る。イエスなのかノーなのか声なき声の中には両方混じっている。分からなかったら管理者の提案に対して「イエス」と言えば良いのだがそれが出来ない。反対意見を表明してもその中身がトンチンカンだったら恥をかくと思って声を出さない。管理者の提案は自分を苦しめるものだとの先入概念があるから簡単にイエスとは言わない。管理者も自分たちの仲間で組織を良くする為に提案しているのだがそれが分からない。