人には大体、好きな「物語」が一つや二つはある。小さい頃、親に聞かせて貰った話とか、自分で読んだ絵本や小説などが主体で、「心を揺り動かされた話し」である。私にはこの種の大好きな物語が極めて多くある。自分でも不思議でならないくらい多くある。この話もそのうちの一つだ。冒頭となる部分を自分流に再現してみよう。
“「起きよ、起きよー!」と各家の板戸を叩いて回る声がある。「船出じゃ、船出じゃ、御船出じゃぞー!」何カ月も荒れた海はようやく凪ぎ、カムヤマトイワレビコは遠く大和の国、浪速津を目指して出航することを決断した。この日の為に艱難辛苦で建造した船の出航準備を指示し、劈頭に立ち、日本の中心地である大和の国を遠く見やった。ここ日向(ひむか)の地、美々津の港には尊(みこと)の下知を受けた男衆たちが小躍りして各家を周り、「船出じゃぞー!」と叫んで回っている。
この話は2700年後の現代の今に繋がる。それが「おきよ祭(起きよ祭)」である。旧暦8月1日の未明、美々津町内を男衆が餅を配りながら「起きよ、起きよ!」の声が駆けぬける。初代日本国天皇、神武天皇となられるカムヤマトイワレビコ、御船出の朝を再現したという「おきよ祭り」は、東遷伝説の記憶を今に伝えているのである。ご祭神が神武天皇であらせられる宮崎神宮にその船出に使われた古代船のレプリカがある。その名が「おきよ丸」である。美々津の町では今でも各ご家庭の郵便ポストは同じものでそこには「おきよ丸」が描かれている。今回の修学旅行で私は宮崎神宮の元宮である「皇宮神社」を参拝したがイワレビコはこの地から美々津の街に辿り着いた。ここで船の建造にかかるのだが、その監督ぶりはあまりにも忙しく、ほころびた衣を立ったまま縫わせたことから、美々津の町内を指す「立縫(たちぬい)」の地名が今に残り、また、しばし腰掛けて身を休めたという岩は「御腰掛岩」として、現在も美々津の「立磐神社」の境内に残されている。
宮崎神宮境内にある、この「おきよ丸」は昭和15年4月、神武天皇海道東征(東遷)2600年記念として建造され進水。そして124人の乗組員は遠く浪速津、今の大阪湾に向かって出航した。全長21m、二人漕ぎの櫓24挺と帆を備えたこの船は、西都原古墳群から出土した「舟型はにわ」をモデルに作られたものでほぼ実寸大である。そしておきよ丸は1940年4月29日、浪速の人々の待つ堂島川に入った。美々津を出港して12日目の朝であった。大阪の人々は歓呼してこれを迎えたと言う。
その名も「おきよ丸」、古事記や日本書紀にも登場する神武天皇にゆかりのあるこの古代船は毎年秋に行われる「宮崎神宮大祭」(通称神・・神武様)で市内を練り歩く。古事記に拠れば、この大祭はご祭神神武天皇が「八紘一宇の皇謨(はっこういちうのこうぼ)」を樹て給いて、日向の國を御進発された日」を、現在の暦にあてはめると10月27日となり、その前日(10月26日)と定められたと伝えられている。天孫ニニギノミコトの降臨に始まる日向神話は、初代神武天皇が日向の地を船出し、大和平定への途についたという、「海道東征」(神武東遷)の物語である。この壮大な物語に触発された私は「海道東征の学院曲」をプロヂュースした。今でも本学院では重要な式典時には信時潔作曲のこのメロディーが吹奏楽部の演奏で荘厳に校内を流れる。