令和4年度の「師走」も平穏に入った。本当に今年は早かった感じがする。高校は昨日から、中学は今日から「期末試験」に入っている。又今日のメインイベントは「高校の第3回目となる入試説明会」だ。WEB申し込みで各教室に分散参加型のリーモートによる説明会である。100周年記念行事の準備も1日の実行委員会で方向性が確認でき、具体的な動きが出て来た。まだまだ動きうる要因はあるが、今から準備しておけばアタフタしなくて済む。「準備万端」用意し、少しの変動に簡単に対応できる準備が「浪速の真骨頂」であり、関係の教職員に期待している。募金の方も動きが出て来た。先行するのが教職員であり、私はこの動きに驚いている。中には12月5日に支給する「賞与・一時金」を待って「すぐします」と言う若い教員もいるらしいと校長から聞いた。有難い限りだ。自分が働いている職場の100年を祝うという気持ちが嬉しい。最近、大変心温まる寄付金を頂いた。以下に詳述しよう。
そのお方のお名前は〇〇●●●と言われる。名前が3文字でかっこ良いお名前である。過日事務長から「このようなお人から100周年のお祝いにと100万円が振り込まれています。」と。「旧職員」であるように、平成12年3月31日に定年退職されており、ご退職後既に22年も経過しており、御年88歳だと電話で言われた。100万円以上寄付を頂いた方には理事長が直接電話でお礼を申し上げることにしている。当時は東成区に住んでおられたみたいだが現在は奈良県の生駒市に居住されている。電話口のお声は明確でまだまだお元気なご様子であった。私はしっかりとお礼を申し上げ、来年4月30日の創立100周年の式典には是非ご出席をとお願いしたが「有難う、しかし病院通いもあり・・・」とご遠慮された。「職員会議で先生のご寄付とお気持ちを必ず伝えます」と申し上げたら、大層なお喜びだった。「今の先生方に宜しくお伝えください」で長い電話は終わった。
定年後20年も経って勤務した学校に大金100万円を寄付されるなど少なくとも今まで経験したことは無かった。これが卒業した母校なら分からぬでもないが勤務先だ。先生は「浪速にはお世話になりました」とおしゃっておられた。すごい経歴をお持ちで昭和33年当時の大阪学芸大学(今の大阪教育大学)を卒業されたが、英語を学び直そうと慶応の英文科に入学し、昭和39年に同大学を卒業され、4月1日に浪速学院に奉職された。英語の先生である。爾来浪速一筋で平成12年3月31日に定年退職である。面白いのはこの時の法人名は大阪国学院となっている。それを私は平成22年に元の浪速学院に戻した。
電話での〇〇先生との会話で二人の教員のお名前が出て来た。一人は数学科のY先生で、私は部屋に来て貰って〇〇先生の事を聞いた。先生は「時間割の神様」とまで言われた教務部のベテランで当時大きな用紙に手書きで授業の割り振りをしていくのだが○○先生は将棋がマチュア2段とか、10手先まで読んで組み立てて行く様を感心して見ていたと言う。面白いエピソードがあって、退職時に「一部を現金で」と要望され、それを持って将棋会館に行き高価な将棋盤を買われたと言う。もう一人の教員は英語科のH先生でこの人も部屋に呼んで話を聞いたが、当時は年齢も離れており「立派な先生で、色々と教わりました」と言っていた。
数学科で教務のY先生と英語科のH先生が共通して私に言ったことは「ギェントルマン」と表したことだった。とにかく何事にも真面目で取り組んでおられたと強調されていた。このような素晴らしい大先輩の教師を有している今の先生方は幸せ者だと思う。12月の職員会議で〇〇先生のお言葉を伝えないといけない。寄付をすると言う事はこういうスタイルである。寄付を受ける側の私もとても幸せに感じた。このような先生方のお陰で今日の浪速学院があるのである。100周年を見事にやり切り、ご恩に報いなければならない。