2024年4月16日火曜日

噺家「4代目桂福團治」師匠

 今日は学校としては普段滅多に無いと言うか、殆ど経験した事が無いお客様をお迎えした。私からご招待したお方である。お名前を「四代目桂福團治」と言われる上方、いや日本落語界の重鎮である。恐らく最古参の現役の噺家さんだと思う。お供は福團治事務所のI事務局長さんであった。「ひょんなこと」からご厚誼を頂き、師匠のお住まいが学校近くの我孫子ということでこの度のご来校となった。師匠は1940年のお生まれと聞いているから御歳84歳になられる。三重県四日市市出身で1960年、上方落語四天王の一人と言われた三代目桂春團治に入門。一春(かずはる)と名乗り、破門騒動などがあったが、197310月に4代目福團治を襲名された。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役、日本手話落語会会長。奥様は声帯模写で吉本興業所属の翠みち代さんとお聞きした。姪御さんがあの女優の泉ピン子さんである。師匠の持ちネタは幅広いが、特に「蜆売り」「藪入りねずみ穴」などの人情物(人情噺)を得意にされている。「ペケペン落語」を売り出すなど新作落語路線でも有名であり、一方では「手話落語」を開発されるなど革新的な噺家でもある。

 

特に師匠の経歴で外せないのは「本校OBの故藤本義一氏」が直木賞を受賞された「鬼の詩」が映画化された時にその主演をされた。上方芸人の芸に対する執念と壮絶な生涯を描いた野村鐵太郎監督の映画である。1975年だから今から45年も前の事で私はDVDを購入して鑑賞したが、迫力ある個性的な名演技であったと思う。原作者の藤本先生とは私がこの学校に着任し、学校改革を不退転の決意で進めて来た時に、丁度共学に中高とも移行した時であったから、飛び付くように藤本先生に頼み込んで「校歌」を作詞して頂いた。何回もお話ししたり、お会いする機会があり、遂に今の素晴らしい校歌が出来上がった。映画の主演は義一先生が「福團治でなければ駄目だ!」と強く推薦され決定されたと言う。福團治師匠は自分の運命もあの映画からとおっしゃっており、義一先生とは長いお付き合いで、恩人だと言われている。 


「鬼の詩」公開から間もなく声帯ポリープが発覚し、これで一時期声が出なくなったことが、「手話落語」を始めるきっかけになったと言われた。手話落語を広める活動中にできた手話落語専門の弟子が今や100名ほどいるとのこと。又師匠はあの天才漫才師と言われる故横山やすし師匠と同期であり、阪神・淡路大震災の復興イベントでは、掛け合いではあるが晩年のやすしさんと漫才を演じた。福団治さんが師匠の春団治から破門された際、「やっさん(横山やすし)が土下座して師匠に謝ってくれた」と福団治師匠は語っている。1996年、日本で初めて視覚障害者の弟子をとるなど、親子の絆づくりを目的とした「親子で聴く人情噺」を「出前落語会」として全国で展開もされている。「生涯現役」という師匠の生き様が私を激励して下さっているのだ。 


今日の会合の目的は9月14日に予定している本校最大のイベントである浪速祭の前日の13日秋季例祭の夕刻、「前夜祭」として、師匠から「一席」をお願いできないかという正式な依頼を本日行い、お受け頂いた。開校100周年のビデオを視て頂き、冊子「100周年夢の軌跡」もお渡しした。校内見学もじっくりして頂き、天空レストランで昼食を共にして話が弾んだ。とにかく楽しい一日となった。どんな話があったのかは、面白過ぎて、ここでは書けない。9月13日、どのような「催し」にするか詳細は今後担当と決めて行くことになる。「乞う、ご期待」だ。