2020年10月10日土曜日

総合的・俯瞰的な観点から

私の始動は早い。朝7時前には執務室に入り、一人でゆっくりと新聞各紙にじっくりと目を通す。「至福の時間」である。何と言ってもネットメディアの検索画面の文字よりは新聞の日本語に直接触れて字句を追っていると頭が冴えてくる。今日の若者は新聞を読まなくなったといわれているが、そのうち新聞の良さに気付くだろう。新聞は決して無くならない。ここ数日「総合的・俯瞰的」と言う言葉が新聞記事やテレビニュースで踊っている。実に面白い。どうも今年の「流行語大賞」を受賞するかも知れない。

 例の日本学術会議を巡る騒動で出て来た総合的・俯瞰的という言葉であるが、俯瞰と言う字は書くのは結構難しいが案外と良く使われている字句である。「俯瞰する」「俯瞰的に見る」といった風に使われ、物事を一段高い観点から俯瞰するように、大局的・客観的に捉えるという意味である。私も良く使う。この意味を巡って有識者と言われる方々やタレント辺りから「意味がわかない、不当だ」などの声が上がっているがそれが僕には良く分からない。中には「学問の自由を侵す」などと野党や一部マスコミも政府を追及しているが総理も言っているように、学問の自由などとは全く関係ない。このようなことで学問が揺らぐようでは元々話にはならない。日本には200人程度の学術会議の委員以外に素晴らしい学者先生は大勢いらっしゃる。

 102日の会見で、加藤官房長官は「総合的、俯瞰的」という表現は「総合科学技術会議の意見具申」に由来していると説明している。中央省庁改革の流れで、20032月に総合科学技術会議が出した「日本学術会議の在り方について」という具申書にこの表現はあり、「日本学術会議は、新しい学術研究の動向に柔軟に対応し、また、科学の観点から今日の社会的課題の解決に向けて提言したり、社会とのコミュニケーション活動を行うことが期待されていることに応えるため、総合的、俯瞰的な観点から活動することが求められている」の部分である。これは法律である。今回の事は法律問題なのである。分かり易く言えば「公務員として自分の意見に固執したり、偏った見方をする人」では駄目ですよということだ。

 年間10億の予算で事務局だけで50人も居て、この人件費だけで昨年は4億円と言う。一方で法律で定められた政府への正式な科学政策などの提言は平成10年8月以来行われていないという。大体あの悲劇的な東日本大震災の際にも的確な見解の表明さえ出来なかった組織だ。民間の学術研究組織ではあり得ない格好だけの集まりではないかという意見には説得力がある。個人的には間違いなく行財政改革の対象だと思うよ。今朝の新聞では河野大臣が乗り出したとある。総理も歓迎だとあった。日本には最高権威の素晴らしい「日本学士院」という組織もある。

 

ある人は今回、任命を拒否された6人の学者に共通点があるとすれば、唯一、見られる共通点とは、過去に安倍政権の政策を批判したことがあるということが書いてあった。身分上は特別公務員なのだからあからさまに人事権者に対しての批判では成り立つこともならないだろう。そう思うなら、そのような人はこのような組織に属したり、行こうとするのは筋が違うのではないか。「在野の学者」で良いではないか。「結構だ、そのような政府お抱えの学術会議の委員にはならない!」と大見えを切った方が随分と「様」になる。任命されなかったからと言って「ごちゃごちゃ」言っては格好が悪いと思うよ。公務員なのだから。今回の事で政府は一歩も引かないだろう。勝負は見えている。それにしても菅総理は骨があるね。ぶれない。