2024年9月13日金曜日

令和6年9月13日その2:奉納落語「桂福團治一門」

 午前中に秋季例祭は無事にそして見事に終えた。生徒達は明日の浪速祭の準備に勤しんでおり、皆良い顔をしている。余程楽しいのだろう。通常ならここで行事は終わりだが今年は「Next 100の元年」を記念して特別企画を入れた。それは「桂福團治一門による学院神社への奉納落語会」である。福團治師匠のお弟子さんは沢山いらっしゃるのだが時間制約もあり、師匠のお考えで師匠を含め3人の噺家さんの登場だった。桂福丸さんと桂小梅さんである。数回の打ち合わせを入れて場所は中央館8階の階段教室に180席用意した。当初は座布団を敷いた本格寄席スタイルを考えたのだが、「少し古臭いかな?」と言う感じがして椅子席とした。舞台もご一門の指導を得て見事な会場が出来上がったと思う。 



何故、福團治師匠かと言う問いにお応えしなければなるまい。まず落語好きの理事長であり、中でも福團治ファンである私に選択権があると言うのは間違いの無い事実である。だから私が決めた。加えて本校卒業生の直木賞作家の故藤本義一先生との関連が大きく影響を及ぼしている。義一先生は直木賞を取った作品「鬼の詩」映画化の時、主演俳優として福團治師匠を強烈に主張され決まったと言う。又私は藤本先生に、共学にした時にすぐ「共学の校歌の作詞」をお願いした。それまでの男子校のイメージを拭い去る為にあの藤本先生の感性に期待したのである。何回も電話やお手紙でやりとりし、漸く実現した校歌が「我ら浪速」である。その時の会話は今でも覚えており、義一先生のお声が耳に残っているくらいだ。大変歌い易い詩と曲で今やこの校歌は完全に生徒、学校のモノになり、これを歌って卒業した生徒ももう15年を超えた。福團治師匠は義一先生を人生の師と仰がれている。藤本義一、桂福團治、そして浪速学院木村の トライアングルのご縁が今回の公演に結びついたのである。

「鬼の詩」の映画で名演技を見せた福團治師匠はその後波乱の噺家人生を歩まれることになる。人間性豊かで博識であるが極めて謙虚であらせられる。私は福團治師匠は「革新の人」と思っており,新作落語とかペケペン落語の考案とか手話落語とか多方面に領域を広げられ、昨今では古典回帰の「人情噺の福團治」として知られている。又著作も多いし上方落語協会の会長など要職も歴任されている。「人望が厚い」のである。偶に行きつけの飲み屋さんで偶然お会いすることもあるが、非常に綺麗な飲み方である。「師匠、一度学校で一席お願いできませんか」とお願いし、快くお引き受け頂き今日の日になった。師匠の事務所は学校から極めて近い距離であり言わば「ご近所さん」でもある。PTAのS会長さんの協力で明日の浪速祭の準備で走り回っているPTA役員の方々が今日のお客様である。企画実行は学校法人浪速学院、後援が浪速PTAで実現した。ちなみに桂福丸師匠の名付け親は藤本義一先生であり、桂小梅さんは本校卒業生で私が校長時代に入学を許可し卒業させた人物である。お二人の事は又違う日にアラウンドに書いてみたい。めっちゃ、おもろい舞台であった。 




それでは福團治師匠の噺の反響を書こう。多くの言葉は要らない。この企画は大成功であった。ご来訪の皆様は時に涙を流し、又大笑いしながら有名な人情噺「藪入り」に聞き入っていた。さすが金看板4代目桂福團治師匠の噺であった。「上手い!」の一言に尽きる。人間が出来ていればこその噺であり、芸は人間を表すものだとつくづく思った。そして品格が高い。私は益々福團治師匠が大好きになった。益々お元気でご活躍を祈念申し上げる。秋が深まった頃、今回のメンバーでの打ち上げ会を楽しみにしている。
師匠のプロフィールを下記に記す。

桂福團治   出身:大阪府

          昭和353月四日市商業高校卒業 •        昭和355月三代目桂春団治に入門

          昭和38年大阪千日劇場にて初舞台 •        昭和40年桂小春となる

          昭和45年ペケペン落語を考案

          昭和4810月四代目桂福團治を角座にて襲名

          昭和50年藤本義一氏の直木賞受賞作を映画化した「鬼の詩」に主演

          昭和54年手話落語を考案

      受賞歴 昭和43年「三洋文化新人賞」受賞、昭和56年「上方お笑い大賞功労賞」         平成11年「文化庁芸術祭演芸部門」優秀賞