「第72回伊勢修養学舎」の最終班である第5班が定刻に出発した。見送りながら、これで最後かと思うと少し「ホッ」とした。でも現地の校長以下先生方は「まだあるのか?」と思いながら現地で待っているのも仕方がない。今までは4班までで5班などあった試しはないからだ。教員も一人当たり2回参加する先生方も出てきている。特に11日間連続で通す校長、副校長、学年主任、神道科の教諭には長い期間、ご自宅を留守にして申し訳ないが「これはこの学校の最重要の行事」だと思って対応してくれているのが私には嬉しいし感謝の思いが心に満つる。30日には最終班が学校に戻ってくるのでその無事な帰りが待ち遠しい。翌31日が1学期の終業式となる。
バスを見送った後、目の前のグランドの芝生工事の状況を観察した。10年前に張った人工芝とは進歩した品物で新製品は静電気で取れた芝が靴先やズボンの裾にまとわり付かないと担当者も業者さんも言っていた。彼らの仕事は「やり始めたらすごい速さ」である。完成が楽しみだ。その後ついでに天空レストランの焼き立てパン販売コーナーの改造イメージを確認した。スタート時点では男性の新店長1名に女性の幹部職員4名でスタートする方向だ。大量に焼かねばならない時はPTAからの応援なども考えている。ほぼ全員が経験者だからまず安心だが、狭い空間だけに「チームワーク良く」やって貰いたいと思う。30日に2回目の全体会議を行う予定である。
凡そ人間社会の葛藤や軋轢は「個性と個性のぶつかり合い」から来るものだと考えて良い。学校とて一般の社会と全く異なる訳ではない。前述した伊勢修養学舎も約1100人の生徒だから「実に様々な特徴を有する生徒群」だ。この一見個性と思えるような、成長過程にある精神が揺れ動いている、様々な生徒1100人を、ほぼ個性が出来上がった教員125名とのぶつかり合いが伊勢修養学舎だから、その仕事の難解さの様相は容易に想像出来る筈だ。学校とは大人を相手にしているところではないからその分大変な仕事なのである。
ここで言うところの個性とは、わざと奇抜なことをする人、個性を出すつもりで、わざわざ人と違った行動をしようとする人、個性的に思われたいからわざと突っ張っている人、流行のファッションを追いかける人、目立ったり変わっていたりすれば、何でも個性になると思って行動する人、反射的に直ぐに対抗的になる人、反論ばかりする人などではない。確かに見た目や行動、思考は特徴的であるが、これらを個性とするのは私には大きな違和感がある。個性は動的であり、揺れ動いている。芯は変わらないが、表面は右顧左眄し、グラグラ動きながらじわじわと変わって行くから難しい。
個性と言う表現を安易に使うべきではない。習慣や癖などを個性として言い訳には使わない方が良い。自らこれが私の個性ですなどと言う言葉を耳にすると私は振り返ってその人を見る。個性は努力して努力して耐えに耐え、結果として身についた自然に出てくる人間性である。人間として薫り高い芳香を誰に対しても放つ人を個性ある人と言う。これが私の定義だ。