「気働き(きばたらき)」という言葉がある。時に応じてすばやく気を使うこと、機転とかその場に応じて、よく気が利くことを言う。基本的には「おもてなしの精神」、英語の方が時に分かり易い時もあって「ホスピタリティ」が日本語の気働きの真髄ではないか。同義語に「気配り」「心配り」「気遣い」等がありそれぞれ相手の状況、心象風景、期待していることを察知して、使い分けることが大切である。その相手にとって最も負担にならないように、または最も手助けになるように動くことが望ましく、相手が感動するように、となると少々やり過ぎで「さりげなさ」が余計な効果を生むこともある。要はお越しいただくお客様に対してどこまで気を働かせることが出来るかどうかが私立学校の差に繋がる。「私立学校を教育を提供するサービス産業、生徒・保護者をお客様」と捉えることが出来るかどうかである。
第3回高校入試説明会における参加者のアンケートで我々は結果として我々の提供した「サービス」の効果を知るのだが、今回も多くの評価が届いた。まず吹奏楽部の演奏で参加者を迎えたことが極めて大きな影響を与えている。「まさか吹奏楽部の演奏で迎えて頂くとは・・・」「素晴らしい演奏でした・・・」「気持ちが届きました、良い学校の証明で是非入学したいです・・・」等々のオンパレードであった。私はこのことが嬉しくて仕方がなく、昨日顧問の先生方全員を部屋にお呼びしてお礼を申し上げ、理事長顕彰の象徴である「天孫降臨焼酎」を差し上げた。今から14年前の部員数名から今や100人に迫り、金賞を連続で受賞するくらいに育った吹奏楽部が「嫌な顔一つせず」、学校法人の業務の応援に参加してくれるようになったことが素晴らしい。今後とも楽器をドンドン揃えてやりたいと思う。
特に今回、自分自身も気付いていなかったアンケート結果に目が行った。それは2回目と3回目に連続して参加してくれたある保護者が書かれていたことだ。「前回は教室の席が通常通りに前を向いていたので体を斜めにして見ていましたが、今回はテレビの方に向かって並んでいることに感動しました。浪速さんはこのように気働きしてくれるサービス精神が凄いと思いました。」とあったのだ。この文章に私は目頭が熱くなり、小躍りして喜んだ。入試広報部員がやってくれたのだと思うが、「さりげなく」この方が見易いと席を並べ替えてくれたのが保護者のお心に届いたのである。素晴らしい気働きだ。教室数だけで大きな数になるがそれを受験生と保護者の見やすい方に並べ替えてくれたのだ。このような気働きを失わずにいたら、この先、本校は厳しい状況下でも生徒の集まる学校として存続できるだろう。
学校の教育は一種のサービスであると考えることができるか?同業他者が多くいる中で「差別化した高い水準の教育の提供はサービス競争」であると考えることが出来るか?私立学校の教職員は全員がサービス産業の営業従事者だと思うことが出来るか?教育と言う営為の尊厳と品格を保ちながら、気働きをすることのできる教職員が多くいる学校こそが少子化の中で世の中の認知を受けた学校として生き残っていくだろう。「俺は先生・・」「私は先生・・」とプライドばかり高く、腰高で気働き一つも出来ないような先生は淘汰されるだろう。学校の先生が偉いのではない。立派な先生が偉いのである。勘違いするな!