高校卒業式も終わった。「3年生の学年団」は何時もならその日の夕方、ミナミや天王寺辺りに繰り出して「打ち上げ」となるのが通常であるが、今年は当然自粛だった。3年間、頑張ってくれた学年団の担任の先生方には苦労話も色々あったと思うが仕方がない。私は慰労のために主任及び担任16人の先生方お一人お一人に学年主任を通じて「金一封」を差し上げ、打ち上げを自粛してくれた代替えとしたのであった。ところで27日のアラウンドで気付かれたかも知れないが、卒業式では例年の如く生徒と学年団の先生は胸に「カーネーション」の花を一つ付けている。これが何時頃始まったのか定かではないが私は「良い伝統」「浪速教育の集大成としての象徴」と位置付けて継続して来た。これだけは今後とも引き継いでいかねばならない。
最も今年も用意した花は700本だから安くはないし、枝を切り取って胸に差しやすいように加工も必要だが、長いお付き合いをしている出入りの花屋さんが「これだけは絶対に用意する」と段取りをしてくれている。有難い限りである。「何故のカーネーションか?」であるが、私は「感謝の誠」を現す象徴と捉えている。仏教でも神道でも「報恩感謝」は人間の生き方の根源の教えだと思う。先のアラウンドで触れたが人間は父母から生まれ「産土の神」が守ってくれている。更に神道では「浄明正直」という大切な言葉がある。この言葉も深い感謝の意味がある。神道もひとつの「宗教」だが、戒律とか文書による明確な「教え」というものは存在しないのが、神道である。感じる宗教であり、修養なのである。
「浄(清)く、明るく、正しく、直く」だ。
「浄……清らかで、濁りや穢れのない心 明……後ろ暗さのない、朗らかで明るく爽やかな心 正……公明正大で噓偽りや裏表なく、モラルやルールを大切にする心 直……真っ直ぐで偏りのない、素直な心」である。清らかで、明るくて、正しくて、素直な心というのは、ひとことで言えば、人間が生まれたときに持っている魂の本質、「真心」である。あるいは「誠の心」とも表現できるかも知れない。神社神道の学校として本校の校訓あるいは校是は伊勢神宮から頂いた「浄明正直」なのである。私は何時もこの字を背負って執務室にいる。結構重たいよ!
どのような人間も、生まれた時から悪い考えを持っているわけではないし、生きていく中で出会う、さまざまな誘惑や挫折、曲が事等によって心が汚されてしまうことを「穢れ(けがれ)」というが、神様は何時も穢れを打ち払い、「真心」を取り戻すことができるということを教えてくれている。浄明正直の生き方は神様からの応援を戴けるという風に私は捉えている。大体今日で高校願書の受付はほぼ終わった。何と何と「専願受験者が新記録」は間違いない。専願は「本校で学びたい、本校に入学したい、それ以外は考えていない!」という受験者である。私は4月の入学者を心待ちにしており、新入生の生徒に「浄明正直」を徐々に伝えて教えて行かねばならない。それが理事長・学院長の責任である。「責任があるということは嬉しいこと」だ。