2021年1月25日月曜日

二の足を踏む or 慎重居士?

今日から「高校卒業式」の準備もほぼ終わった。コロナの影響から今年の式典は簡素化し、時間の短縮を図る。珍しい形になるだろう。明日が予行で27日が本番である。「浪速高校の志願書受付」も2月2日締め切りで、順調に数が伸びている。明日、明後日が出願の山場になるから卒業式とガチぶつかってしまったが仕方がない。今日は「校務運営委員会」に先立って学校医のご出席の元、「安全衛生保健委員会」があった。私はと言えば既に4月からの新年度の体制準備で色々と考えを巡らせているところである。前に触れたが4月からは新専任教諭を5人採用する。内3人は本校の卒業生である。いわばOBが念願かなって「教師として母校へ凱旋できる」のである。まずは「おめでとう!」と祝福したい。立派な教師として育って欲しいと思う。

 


ところで「二の足を踏む」という言葉がある。ご存知のように一歩目は進みながら、二歩目はためらって足踏みする、思い切れずに迷う、ためらう、しりごみするという意味だ。「正札を見て二の足を踏む」と言う風に使われる。語源は諸説があるが、要は「決断することができずためらうこと」を意味する慣用句である。私には性格からして二の足を踏むという場面はただ一つの場面を除いて全くない。何事も直ぐ決断し、二の足どころか実行する前には既に前足を踏んでいるような私が二の足を踏む場面とは一体何か?・・・それは本校の卒業生を正式な教職員として採用をするかどうかの場面の時である。

 



これには過去の苦い経験が背景にある。私の小さな「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」だと思う。既に遠い昔になってしまったが、学校改革の過程で2人のOB教員が大きな障壁となり、この二人の排斥、追い出しにいささか精神的に苦労した経験がある。爾来卒業生を正規職員に入れる局面になると二の足を踏む。否、やっぱり表現が少し違う。「慎重居士」になったと言うべきか。木村が慎重居士?これも身近な人から笑いが漏れるかも?違うか!今回も相当人物を観察し、最終的に卒業生3人を迎えると決めた。一点の曇りもなく決めた。必ず本校発展の為に頑張ってくれると確信している。

 勿論、本校に職を得た教職員の採用基準は全て「人物本位」である。だが人間は悲しい生き物で「本校を卒業したというだけの経歴が自分を惑わす」のだ。さも「自分の学校だと思うようになるのか」、「自分の生徒時代をさも極上の時代」と錯覚し、辺りを睥睨し、自分勝手な言動が出てきたら危険域である。まだ成長過程の15歳やそこらで「わずか3年、本校で学んだだけ!」というのに思い上がった言動や風情が私には「鼻もちならない」のである。もう一つはその職員の高校時代の成績や言動を同窓は皆知っており、「何だ、あいつが母校の教員だって?笑えるよ!息子は行かせられないな!」などとなってしまっては不味いから、敢えてOBは採用しないのが良策と言う考えもある。

 


本校には高校、中学で卒業生職員が専任教職員及び内定者が10名いる。8名が教員で2名が職員である。10名の内前述した3名を含めて7名は私が採用した人々である。徹底的に観察し、「腹を括って」採用を決めた7名である。現在総勢170人近い教職員で10人がOBだから多くはないし、そうかといって少なくもない。今は彼らに全く問題はない。ただ私がいなくなり、何十年後にどのような教職員になっているのかそれは気になりますよ!学校社会は基本的に組織ではなく、一人一人が専門店の社長さんであり学校はその連合体である。学校は完全に平等な社会であり、こういう組織は「OB教員が跋扈」するには格好な場所である。 

齢60歳のおっさんOB教員が勉強もせず、自分では何もせず、OBではない若い教員に「自分の時代は云々」と説教を宣い、時に管理職まで無視するような言動を想像することは難しくはない。そうなると学校は下り坂に突き進んでしまう。要はOBであるかどうかは全く関係ない。あくまで教職員として学校という営為を展開する組織の中で総合的視点で「教育者として優秀であるか、優秀になろうと努力する人か、そのポテンシャルがあるかどうか」で今後とも素晴らしい専任教職員を採用していく。「本校ではOBであるか、どうかは全く関係ない!」。