アーカイブ③にて今に続く住吉区山之内の地に学校が創立された時、土地取得に関して当時の依羅村村長、東野修一郎氏による多大のご貢献があったと私は書いた。忘れてはならない3人の恩人のお一人である。さて本日のブログは「何故本校は現在の地に選定、創立されたのか」ということについて更に深く、歴史を振り返ってみる。学校土地の選定などは「密かに進められるもの」「極少数の人々で進められるもの」だから公式な記録はない。しかし50年史に貴重な記事があった。当時の園理事長と平石芳太郎名誉校長のお話だから事実であろう。尚この平石先生のことについては別途改めてブログに書かねばならない程、極めて本校歴史に燦然と輝く立派な教育者であった。
大正12年に創立された本校であるが、設立の話は4,5年前から出ていたと園理事長は書かれている。当時「キリスト教の桃山中学、仏教の上宮中学」と先行する二つの私立中学があって、次は神社神道の大阪国学院にもどうかと言う話はあって当然であったろう。ミッション系、仏教系があって、次は神道系と普通は考える。この辺はいわゆる今で言うところの「行政指導」だと思うが「大阪府が強く関与」している証明である。大阪府の主務担当者は松尾幾太郎氏と言う行政官であったと書かれている。当初は「各神社の基本金を学校建設に投入せよ」ということから始まっており、加えて大阪府は「官幣社六社」からも資金拠出を要望したがこれは内務省が難色を示したという。神社の基本金を他に流用することはおかしいと言うことであろう。紆余曲折があったが結局は現在の地に決まった。
当時の村名、依羅村にあった「依羅池を埋め立て」て学校の校地となったのである。これが最も安価で、「折り合いが付いた」のではないかと私は想像する。勿論池だけの土地では足りないから近隣用地の取得については当時の依羅村村長東野修一郎氏の働きがあったことは既にこのアーカイブに記している。50年史座談会によれば元々は今の南海沿線ではなくて「近鉄沿線が有力」であったとある。近鉄沿線に決まっておれば本校は又違った成り行きになっていたと思う。伊勢神宮に関係が深い本校の立場からすれば近鉄沿線が好ましいことは当時の神社界の人々全ての共通の思いであった筈であるがそうはならなかった。いずれにしても市内の外れ、大和川沿いの「高野線沿いにある私立中学校」となった。当時の大阪南部は言っていれば「ど田舎」で生徒の中には恥ずかしがって「校章を隠して」登校するものも居たとある。100年前は阪和線はまだ出来ていなく、高野線のみで「あたり一面は墓と田ばかり」だった。確かに当時の大和川沿いは大阪の外れも外れで「焼場と田畑」のみであったという周年誌の記事は間違いなかろう。
「依羅(よさみ)」とは普通は読めない。しかしこの名称は由緒ある地名で依羅村は明治27年に成立し、大正14年に大阪市に合併するまでは「住吉郡依羅村」であった。現在の住吉区我孫子、山之内,杉本、浅香、苅田、庭井の六ヶ町からなり、大阪市の最南端の村であった。結局本校の住所表示は住吉区山之内2丁目である。依羅の語源については別途ゆっくりと調べてみたいと思うが「大依羅神社」と関係あるだろうことは容易に想像できる。まさしく「古事記の世界」である。本校の近くにはこの依羅という字を使った「大阪市立依羅小学校」がありここの「周年誌」や依羅郷土史を一度調べてみたいと思っていたがまだ実現していない。
いずれにしても紆余曲折はあったがこの依羅村の依羅池を埋め立てて「校地」が出来、本校は産声を上げた。あたり一面墓と田で見渡す限り何も無かった。一枚の写真があるが遠く大和川越に堺方面が見える。校舎も他校の古いものを譲り受けたものだったし、とにかく「無い無い尽くし」でスタートした本校であった。「筆舌に尽くしがたい」と言う言葉があるが創立後11年の昭和9年の室戸台風で殆どの校舎が倒壊し、校舎が一新されたのは実に昭和37年であり苦節10年と言うけれども苦節30年でようやく一人前の学校施設になったと思う。しかしこれも学校設置者たる大阪国学院、教職員、生徒たちが一丸となって夢に希望を膨らませて「学校つくり」に邁進していったからである。これは公立学校では有り得ない私立学校独特のものである。私立学校は「私」が学校を作るのである。
今、本校で働いている教職員はこのような先人の苦労に思いを致さねばなるまい。若い世代の教員が今厳しい就職事情の中で本校で働くことが出来るのは「ここに学校があるから」である。学校を創り、残してくれた先達のお陰である。第一期生の卒業生が80年史に書いているが、彼らが中学3年生になった頃「池を埋め立てて運動場を作った」とある。石ころが多くて運動場を整備するために生徒は大和川から川砂を運んで来たと言う。昔の生徒も教師も汗を流して学校を造った。実に立派であり、頭が下がる。