2022年5月7日土曜日

浪速100年アーカイブ⑥大阪府との関係・・準公立的な学校として誕生

 今までの浪速100年アーカイブスにおいて何回となく触れたように「大阪府の強烈な指導支援を得ながら本校は開設された」と私は書いた。しかしこの見方は本校側からの言い分であり、「大阪府が本校をどのように見ていたか」の資料が「パチッ」とあればそれで言葉は不要である。ところが「裏付けとなる、これ以上の最適な資料がないくらい」のものがあったのである。それは「60周年史」の巻頭にある「当時の大阪府知事岸昌氏の祝辞」である。ちなみに本校では周年誌が出来たのは「小冊子」みたいな40周年誌からであるが、昭和58年編集の、この60年史となってようやく周年誌らしく「箱入り、布表紙」で完成度の高い「中々の出来」となっている。還暦を迎えた本校が力を入れて作成したことが伺える、他所にお見せしても恥ずかしくはない。私の歴史回顧資料作成の強力な味方である。 

さて前述の元大阪府知事岸氏の挨拶文は冒頭以下のような文章である。(前略)貴校は大正12年大阪府下の神職団体である財団法人大阪国学院が浪速中学校を創設したのが始まりであります。今では余り知られていませんが戦前は浪速中学校と大阪府とは密接な関係にありました。当時大阪国学院の総裁には大阪府知事がまた院長には大阪府内務部長が就任するなど「準公立的な一面」を持っておりまして他の私学とは趣を異にする独特の学校であると言えましょう。・・・(後略)前述の「準公立的一面」と言う言葉で全てが分かる。 


「創立時に浪速中学校の教員になりその後第七代目の校長に就任した平岩芳太郎先生」の回顧録に「当時一人の生徒から何時になったら府立に昇格するのですか」と聞かれて困ったと書いておられることからも伺い知れる。当時は前にも書いたように校地の選定から生徒募集まで府の支援を受けていた。初代の校長事務取扱の任にあった大島鎮治先生も大阪府から派遣された教育行政官で、本校はまさしく行政に「おんぶに抱っこ」の状態であったと言える。だから前述したように「準公立学校」としてのイメージは広く大阪府内にはあったと考えることは自然である。しかしこの事は特に生徒には余り良い感情ではなかったと先の平岩先生は書いておられる。

 特に府立中学が先に入学試験を行っていたこともあって浪速中学校の生徒は「卑下」していたとも書いておられる。当時我孫子南京と我孫子大根の畠ばかりで「高野線にある学校」というのは「校章を隠して通学」するような生徒が居てもおかしくはなかったろう。大阪府の支援は創立だけにはとどまらずその後長い間継続していることも今回分かった。まず創立時の校長事務取扱者である大島鎮治氏の「創立30周年浪高新聞」に書かれている文章から支援は「教師手配」にまで及んでいたことが分かる。 



「神明奉仕」の毎日である神社界の神社神職の方々ばかりでは学校の運営などは出来ない。それは彼らの経験と知識では無理である。「教育課程」一つ、神社の宮司さんには無理である。人間として尊敬に値し教育の見識は誠に持って高いものがあっても学校作りには「技術」が必要である。だから大阪国学院はまさに全てを大阪府のお力をお借りしていたことが分かる。そのことは私が着任するまで続いた。大阪府や大阪市から立派な公立高校の校長職経験者を迎えればそれで「万事オッケー」の風潮があった。しかし安易なこの発想が浪速の衰退を招いたと後に知ることになる。 

府の支援の話に戻そう。例えば初代の教頭先生は当時の大手前高等女学校(現在の大手前高校)の英語担任教諭を「無理にお願いして迎えた」とある。当時中学校の新設ラッシュで有資格の優良教師を得ることは「到底事情が許されない時代でした」とも大島氏の回顧録にあることから容易に想像できる。大島先生の文を転記する。この武田教頭先生は学校では英語の以外に教務庶務全般にわたり校長女房役として実に熱誠もって創立の大義に奉仕され、学校の基礎を建設した一人として大なる功労者であったとある。氏は健康に恵まれず病苦をおして生徒の陣頭指揮に当たったことなど思い出され感慨深いのでした。不幸退職後に突如死去され実に気の毒なことでした。 

大島鎮治先生の当に「哀悼文」とも言うべき上記の文章から私は教育現場での教務関係即ち「学校の中身」について果たした武田教頭先生の働き振りが分かる。私は今の浪速を代表して初代武田教頭先生に深甚なる感謝の意を捧げたいと思う。彼から本校の教育の中身はスタートしたのである。初代校長事務取扱の大島鎮治先生は約1年と言う短さで大阪府に戻られたからあくまで浪速中学校の開設がその任であったと考えられる。即ち「予定の線」であった訳である。その間正式な意味で初代の校長先生を大阪府は探していたか既に目星を付けてタイミングを待っていたかであろうが遂に本校に「本流の校長先生が誕生」した。この初代校長先生の話は次のアラウンドで。