2022年5月14日土曜日

浪速100年アーカイブ⑨ 大正時代と本校の誕生

 このアラウンドで99年前の浪速中学校創立時の状況について詳細に記してきた。ここで「本校が創立された大正時代」について少し幅広く記述したいと思う。この大正と言うのは一体どのような時代であったのだろうか。「大正時代について知るところを述べよ」となると、これは大学入試問題に出てきそうな格好のテーマである。「明治と昭和に挟まれたわずか15年の時代」であったが、その12年に浪速中学校は創立された。明治45年が大正元年となるが細かく言えば明治45年(1912)7月30日明治天皇が崩御され、元号が大正と改められた。明治45年は大正元年である。そして大正15年即ち1926年12月25日に大正天皇が崩御されたので元号は昭和に変わった。この「15年間の期間を大正時代」と言う。西暦で言えば1912年から1926年になる。


 
大正時代といえば「大正デモクラシー」を答案に書かないと点は取れない。大正年間には二度も「護憲運動」が起き、明治以来の藩閥支配体制が揺らぎ「政党勢力」が進出した時代である。尾崎行雄や犬養毅らが指導層として活躍し大正デモクラシーと称されるようになった。大正7年には「米寄こせ」の米騒動が起き、平民宰相原敬が登場した時代である。とにかく大正3年の第一次世界大戦に日英同盟の義理のために参戦したが結果的に戦勝国の一員になってしまった。これは大正を語る場合のキーワードである。この勝利によって誰もが「大国」を意識したのではないか。 

大正時代とはスタートから「良い時代」だったと言える。しかし大正時代を語る場合は大正12年9月1日の「関東大震災」も書かねば解答は減点となろう。本校はこの関東大震災の発生した年に創立された。我々は今東日本大震災と福島原発事故で当に「国難」とも言うべき状況を経験したが今から99年前にも酷似した状況下にあったのである。この未曾有の大災害を逆手にとって今日の大東京の基盤を築いたのもこの時代であった。さて芸術文化でも大正時代は芥川龍之介、有島武郎や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。 

大正14年にはラジオ放送が始まり、「大正の三大洋食と言われたカレーライス、とんかつ、コロッケ」が出たのもこの時代であった。言ってみれば「一種独特の雰囲気を醸し出した時代が大正時代」であった。良く人は「明治時代と比較して大正時代を言及」する。私の父は大正8年の生まれで母は大正12年だから、浪速中学校が出来た年の誕生であった。今でも覚えているが明治生まれの祖父とは全く父は異なっていたのを覚えている。見た目も本質も優しい父だった。祖父は厳しい面もあった。特に母と合わなかったのを良く覚えている。 

以上のような時代背景の中で浪速中学校、今正しく表現すれば「旧制浪速中学校」は誕生したのである。私はこの機会と思って「旧制中学校」のことを相当勉強した。それは案外大変な作業であった。それは幕末明治維新以来の日本の教育制度と歴史を頭に入れなければならないからである。教育は当に「国家百年の体系」というが、今日の我国の教育制度と教育の成果を考えた時に私は明治新政府の果たした役割の大きさを思わざるを得ない。当に今日の日本の繁栄に繋がる教育制度の改革こそが、「坂の上の雲」そのものであったと考えるのである。教育の力を痛感する。 


まず「旧制中学校と旧制中等学校との違い」を理解しなければならない。旧制中学校とは戦後「学校教育法」が施工される前の日本で男子に対して中等教育(普通教育)を行っていた学校の一つである。通常、誇りを持って「旧制中学」と称されることが多い。明治時代には「尋常中学校」と呼称した時期もある。本校は誕生以来「浪速中学校」であり、旧制中学である。これに対して旧制中等教育学校とは旧制中学校のみならず、高等女学校、実業学校(農業学校、工業学校、商業学校)をも包含する概念である。約して旧制中等学校と称されることもある。即ち旧制中学と旧制中等学校は根本的に異なる。混同してはならない。

旧制中学は明治19年の「中学校令」に基づき各都道府県に少なくとも一校以上の規定で設立され前述したように「第二次世界大戦後の学制改革」まで続いた。入学資格は「尋常小学校」を卒業していることであり、「修業年限は5年間」であった。中学校令は明確に授業内容を規定しており1931年までは中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。浪速中学ではドイツ語の授業が大変有名であった。この事は別途記す。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出したのである。 

その背景として、男子は農業・工業などの産業従事や兵役といった事態に対しての即戦力なる者が多く求められて必ずしも「旧制中学へ進学」と言ったエリートコースを制限せざるを得なかったのである。これは極めて興味ある施策であった。確かに明治時代の旧制中学進学者は華族、士族、地主、そして新しく誕生したブルジョア階層に限られていた。ところが良い時代である大正時代になると「中学進学熱」が一般市民の間にも広がってきたのである。特に前述した第一次世界大戦の戦勝国になった後、都市住民の子弟の中学校、高等女学校、実業学校への「進学熱」は急速に高まり「学校不足」の状態になり旧制中学、旧制中等学校はドンドンと誕生したのである。

 文部省発行の「学制100年史」によれば明治19年(1886)中学校令の発布された年には全国で中学校が56校、生徒数が1万人しか存在しなかったが明治33年(1900)には194校7万8千人になり、明治43年(1910)には302校、11万人と明治の後半25年で学校数は6倍、生徒数は10倍に急増した。この背景には教育機関の整備拡充や学歴の価値が次第に社会に浸透していたことを示す。言ってみれば士族や官吏だけでなく富裕な商人や農林漁業従事者の子弟まで「成功熱」や「立身出世主義」が拡大していたことを示す。この流れは大正時代になっても更に拡大を続け企業も官公庁も組織の中堅を担う人材としての「中学校卒」を求めた。高まる高等教育機関への進学熱に対して政府も遂に大正2年に教育調査会、大正6年に臨時教育調査会などを設け遂に「大正8年に中学校の量的拡大策」を打ち出すなどした。このような時代の流れの中で「大正12年、旧制浪速中学校は誕生」し生徒数204名でスタートし今日まで99年の時を刻む。