2022年5月18日水曜日

生徒と共に萩焼の故郷を訪ねて

 今日は5月18日、生徒と共に萩市に来ている。先ずは吉田松陰先生を祀る松陰神社にお参りした。慶長9年(1604年)、広島から萩に移封された萩藩初代藩主毛利輝元の命により、朝鮮人陶工「李勺光(山村家)」「李敬(坂家)」の兄弟が松本村中の倉に開窯したことが萩焼の始まりである。十三連房(室)から成る朝鮮式登窯が築かれ、当初は当然の事ながら高麗茶碗に似ている茶碗が主に焼かれていた。弟の李敬は寛永2年(1625年)、藩主より坂高麗左衛門の和名を受け、以後、坂家は中の倉窯の中心的役割を果たしていく。「古萩」とはごく初期の萩焼を総称する呼称で、松本焼の初代、二代、三代頃までの作品で枇杷色釉や白萩釉が特色である。私も大好きな焼き物である。「萩の七化け」と言って萩の茶碗は使い込みに従って顔が変わってくる。


粘土は「大道土」が主体で、江戸時代享保年間(171636年)、周防国吉敷郡大道村(現・防府市台道)において真っ白できめの細かい陶土(大道土)が発見され、高級茶器が盛んに焼かれるようになった。この「大道土」が使用される前の萩焼が前述した「古萩」と呼ばれている。藩の手厚い保護を受けてきた萩焼の窯元も明治維新の変革で後ろ盾を失い苦境に立たされ、社会が西洋化し、数多くの窯元が次々と消滅して行ったが、明治後期に日本の伝統文化の再評価が起こり「茶の湯のブーム」が到来し、大正期には深川焼の十二代坂倉新兵衛が「表千家」に入門し家元伝来の名品を写し、萩焼と茶の湯との結びつきを強調するブランドイメージが確立した。この頃から「1楽、2萩、3唐津」と言われるようになり萩焼は一気にその知名度を上げ、お茶人の垂涎の的となる。

敗戦後の物不足が去り、経済成長期になると更に茶道の隆盛が高まり、 戦前に比べ比較にならない程、萩焼の需要が高まり窯元は息を吹き返した。その追い風の中、伝統技法に独自の工夫を研鑽する深川焼の十二代坂倉新兵衛と松本焼の三輪休和(十代三輪休雪)が文化財保護委員会より記録作成等の措置を構ずべき無形文化財として指定を受け、1970年に三輪休和、1983年には弟の10代三輪壽雪(十一代三輪休雪)も人間国宝に認定された。

今日、私は予めアポを頂いていた三輪窯の13代目の三輪休雪先生のご自宅を訪問させてお話を伺う機会を持てた。先生はお部屋に通して下さり、奥様やお嬢様からお抹茶まで頂く幸運を得た。大阪からの突然の訪問に対してここまで遇して頂いた事に感激と感動であった。小一時間の対談の話は別途書きたいと思う。是非大阪にお越し下さり学校視察をお願いして私はお暇したのである。後刻これ又有名な波多野善蔵先生の指月窯を訪問した。後述している。




前後して私は松下村塾と毛利藩の藩校であった明倫館の旧跡を訪ねた。萩城跡を見て、前述したように現代萩の作家の中でも「波多野善三」さんの作品が大好きなので指月窯を訪問した。どのような話になったのか又詳しくは別のアラウンドに書きたいと思う。今回は折角の機会と思い、多くの窯元の中から三輪休雪先生の三輪窯と波多野先生の指月窯を訪ねた事になる。今日は素晴らしい時を過ごすことが出来、無上の喜びであった。

勿論中学生にはこのような事を話してもまだ感じる歳ではない。今日の生徒は宮島からバスで一路、山口の秋芳洞を楽しみ、萩の松陰神社に参拝、その後は萩の窯元で粘土と闘い、世界でただ一つの自分だけの作品作りに励むように生徒に話した。毎日が楽しい。とにかく今日も充実した一日であった。