2022年5月10日火曜日

浪速100年アーカイブ⑦初代校長「大里猪熊」先生 その1

 お名前を「大里猪熊」さんと言われる。昔はこのような勇壮なお名前の方がおられたものであり、女性でも「お熊さん」とか「お寅さん」とか。初代校長、大里猪熊先生は大正13年5月30日から昭和6年1月28日まで奉職された。大正12年4月30日の第1期生の入学式から1年後に着任された。素晴らしい校長先生であったとどの資料にも書かれている。この初代大里校長先生の時代に今日の浪速のDNAは育まれた。いかなる学校でも初代の校長先生とはそういう存在である。「学校は校長、校長は学校そのもの」なのである。実質的な校長職の執行は府から派遣された大島鎮治先生であるがあくまで正式な職名は校長事務取扱であった。大正12年4月17日から大正13年5月30日まで奉職され、大阪府に復帰された。本校の誕生の基礎を築いた当に「創立の3恩人の一人」であると私は書いた。晩年は府立高校で物理学を講じられたという。とにもかくにも浪速中学校は創立から1年経って正式な校長を迎えることが出来た。

初代校長事務取扱の大島鎮治先生から初代校長大里猪熊先生へのバトンタッチは見事であった。素晴らしい引継ぎであったと思う。今となっては何故、1年間のギャップがあったのか知る由もない。大里先生の就任は想像するに「予定の線」であったに違いない。人事発令のタイミングからそのようにせざるを得なかったのではないか。大阪府が力を入れて新設の中学校の開校に当たったのであり、当然「初代校長として本格派のエース級先発投手を投入する」ものと誰もが普通に考える。公立も私立も初代校長の人選には力が入るものだ。あくまで「人物優先」でこの人事が決まったと思う。周年誌を広く、深く読んでもこの初代校長事務取扱の大島先生の1年と言う短期の交代については何処にも理由の記述がなくただ淡々と事実のみ書かれている。これが当に「人事の妙」である。


 
大正年間の大量の「中学校増設時代」には私立中学校と言えども「私学は私学で自由なように」とは行かなかった。用地買収から肝心な教職員の手配まですべて大阪府の強い行政指導があったに違いないことは既にアーカイブにおいて記述した。しかしいずれにしても浪速中学校は大正13年5月30日に「大里猪熊」先生と言われる本流の校長先生を得た。この大里初代校長は昭和6年1月28日まで奉職されたから、7年間の勤務である。退職の理由は50年記念誌の「回想50年名誉校長平石芳太郎」の中に「ご病気で辞任」とあった。普通の場合、学校の校長は1月28日などの中途半端な時には辞めないものだ。それは卒業式など学校行事があるからであるが、初代校長大里校長は「自分の育英事業最後の所として浪速中学校を忘れない」との言葉を残して退職された。自分の育成事業というお言葉の選択が素晴らしいではないか。

期中の校長辞任で校長不在となった浪速中学校に大阪府は、またまたと言うか急遽事務官「奥村泰助」氏を校長事務取扱に任じ、同年即ち昭和6年4月11日までわずか70日間勤務させ、交代となった。このことについては又別のブログにおいて言及したいと思う。尚この奥村氏は後に豊中市の名市長と言われた人物である。とにかく創立2年目、大正13年に浪速中学校は素晴らしい校長先生をお迎えした。「初代校長大里猪熊」先生は素晴らしいキャリアをお持ちである。名門旧制府立富田林中学校長時代から「燕尾服に乗馬」姿で登校された。今では考えられな光景である。そしてこれまた名門旧制市岡中学校長を経て揺籃の中にある浪速中学校に着任されたのである。「国家経綸の国士」を教え、故郷熊本城に扁額を掲げるご尊父の血を受けて東京大学哲学出身の謹厳なる風貌にして人格高潔なまさしく立派な教育者であったと記念誌にはある。お顔の写真を拝見してもそのように感じる。