2022年5月11日水曜日

浪速100年アーカイブ⑧「初代校長大里猪熊先生」 その2

 浪速学院が誕生して99年後の今、私はこの大里校長を初代の校長にお迎えすることが出来た「浪速の幸運」を感じざるを得ない。これ以上無いくらいの立派な校長先生を頂いた本校の校長歴史は以後、数代に亘って燦然と輝くことになる。「何事も最初が肝心」である。「学校の格は校長の格」であると言っても良い。私を含めて現代に生きる校長と明治、大正時代の骨太の校長とは「ものが違う」。これだけは自戒を含めて、明確に書いておきたいと思う。世の価値観が変わり、教育現場への組合労働主義的思想の侵入もあって、徐々に教育現場が輝きを失っていった背景には正直、変革の出来ない自己保身の無能な校長の存在と教育と言う崇高な営為に意義を失っていった教員集団があったのは別に本校だけの特別現象ではない。ただ本校はその程度が少し酷かったと言える。これでは本校を創ってくれた先人に申し訳が立たないと私は立ち上がり、「創業の原点」に立ち戻るべく「学校改革」を推し進めたのである。 

40年史、50年史、60年史から初代、大里校長に関する記事を抜き出してみると「どのような先生であったか」一目瞭然で分かる。このように書き手の私は当時の大里校長を見知っていた人物の回顧録から「どのような人物であったか」を想像するのが無上の楽しみであった。大正12年入学の一期生の一人は以下のように回顧している。“現在の母校の場所に校舎が移ってからは市岡中学の校長を定年退職されて母校の校長となられた大里猪熊先生が教材も見ず始めから生徒を見ながら淡々として「修身」を担当口述されていく姿は丁度頭の中に収めた糸の塊から一条の糸をするすると引き出してこられるようであってその一字一句が極めて無駄なく説かれた説教は私ら生徒にとっては又とない価値ある精神教育であった。”



 又二期生の一人は以下のように述懐している。“確か一年か2年の時、大里猪熊校長先生の修身の時間に「何でも良いから人に優れたものを持ちなさい」と言われたが、自分では何が優れているか、分からない。或る日私が名前を掘り込んだ切り出しナイフを持っていたのを校長先生が見つけて「この名前は貴方が彫ったのか」と尋ねられ、「違います」と答えたら先生は何だか期待はずれされたような感じだった。”

 同じく2期生の一人は“あの頃の先生方は個性的な、ひとかどの人物が多かった。謹厳で書が上手く、美術にも理解の深かった大里校長をはじめ、情熱家だった数学の平石先生・・・”。又二期生の一人は当時の教師と生徒の関係を彷彿とさせるような記事を残してくれている。「大里校長と平石先生と淡輪に釣りに出かけたが朝早かったので車内で居眠りをしたのだが大里校長の腕の中で抱いて寝かせて戴いたことが忘れません・・。」とある。 3期生の一人は以下のように大里校長について触れている。“木下という友人と講堂に入り講堂備え付けのピアノで当時の流行歌「道頓堀行進曲」を弾いて校長先生に見つかり、校長先生と担任の平岩先生からきついお叱りを受けました。”とあった。

 4期生の一人は“当時の校長は大里猪熊氏で押しも押されもしない、見るからに立派な人格の名先生でした。・・・”と冒頭書いている。50年史の時代は昭和48年当時であり卒業生も齢80歳を超えているご老体であるからそこは斟酌しなければならないがこの卒業生の一文からも如何に立派な校長であったか分かるのである。浪速中学校そして浪速高等学校のDNAはこのような立派な初代の校長先生と教師によって成長してきたものだと確信した。前期の4期生は“どの先生も一芸一能に達せられ、信念を持ったかたばかりで魂を打ち込んで教わったことを肝に銘じています。」とまで書かれている。

 最初の一期生は昭和3年に卒業して行くのだがその「卒業アルバム」を私は入手した。表紙をめくると大里校長による卒業生に贈る「漢詩」が揮毫されていた。素晴らしい内容と字体である。この詞も自らの作である。如何に教養深き人物であったか分かる。そして私を感動させるのは2ページ目に正門と旧「梅田高女」から移設された本館と一緒に初代校長事務取扱の大島鎮治先生の写真をいれておられるのである。1年で大阪府に戻られたが間違いなく校長事務取扱の職位で第一期生の入学式を挙行したのは大島鎮治先生であり、5年後の卒業時に大里校長は大島先生のお写真を自分と並んで入れられた。そこに私は「武士道の精神」を感じるのである。極めて貴重な一枚である。