2022年5月4日水曜日

浪速100年アーカイブ⑤ 頂いた本館校舎

アーカイブ①から④まで浪速100年の草創期について書いてきた。⑤は「校舎について」記そう。大正12年7月18日に大阪国学院旧校舎(大江神社神官養成所)をまず現在の本校のある場所に移転し移転作業は始まった。しかし「苦難の時代」であった。関東大震災のために資金難に陥り運営に支障があったとある。しかし中学生の入学難の解消と言う大義名分もあって大阪府の支援と神社界の献身的な努力があり、神社界の中には私財の寄付す人や、借入金の計画など苦闘の連続であったと記録にはある。その証拠に「設立当初の校舎はすべて他校の古い校舎の移転」であった。新しく校舎を建てる資金的余裕は無かったのである。 

大正13年6月遂に「本館」が完成、いや移転された。この建物は「旧梅田高等女学校(現大手前高校)」の建物であった。この本館は室戸台風によって多少の損壊は受けたがその後も使われ、現在の新校舎建設前に私の執務室があった「北館新築」まで生きながらえたのである。その北館も平成28年私は取り壊して現在の新校舎を建設した。既に記述したように財政難の中で相当資金面で苦労した本校の校舎はすべて他校の古い校舎を譲り受けたものであった。それも一度に移設したというわけではなくて学年進行に合わせて「徐々に頂いた」というのが正しかろう。沢之町の高野線沿線にあった工場の空き家を借りてとにもかくにも学校は大正12年4月30日に開校した。学校というのは校長室や職員室があってこその学校であり、それから約1年後の大正13年6月に「旧梅田高等女学校(現府立大手前高校)」から頂いた「本館の移設」で一応の校舎郡は整ったことになる。1年かけて移設し、これらの校舎は昭和9年の室戸台風で壊滅状態になるまで使われた。 


これらの校舎について貴重な写真が一枚あるが、見事なまでに学校の周辺には何もない。これらの情景を具体的に記したものがやはり50周年記念誌にあった。座談会「50年の歩みの中で」からその一文を切り出してみる。司会者が言う。「当時は高野線と阪堺線だけであったと思いますが、学校の周囲はどうでしたか」という問いかけにある人が答えて、「その通りで学校の周囲は田ばかりで白鷺が飛んできたと聞いています」。又別の出席者は「阪和線が出来たのがその後の昭和2年頃だったと思います」「学校のまわりは墓と田ばかりでした。」そして次の文章である。 

この座談会の会話録の中である卒業生が次のように書いてあるのだが、正直な印象だったのだろうと私は思った。これも書いておかねばなるまい。この方は初代の大里校長が就任された年の入学とあったから多分2期生だと思う。初代の校長事務取扱の大島鎮治先生がご退任されたのが大正13年5月30日で同日初代校長として大里猪熊校長が着任されていることから第2期生で間違いはないと思う。創立当時の校舎の雰囲気と生徒の印象を上手く表現しているのではないかと思う。「(前略)私の入学した頃の校舎はバラック建てのような女子校の校舎をそのまま持って来て、みっともない校舎でありましたが、先生は皆立派な方で楽しく勉強できましたことを今になって大変喜んで居ます。後略」

 大正12年4月30日に沢之町の旧工場の建物で入学式を済ませた生徒たちは204名であったと何回も記した。令和4年度の今の浪速中学校の入学者数は133名だから当時の旧制浪速中学の勢いというものが分かる。これは勿論当時の「中学校進学意識の高さ」が背景にある。これ又、貴重な写真であるがこの204名は4クラスに分かれた。A組からD組まであってまずこのA,B,C、Dという表現に驚く。大正年代の学校のクラス訳に英語を使っているのである。ちなみに先の大戦の戦前戦後は英米文字は使うなと言ってクラス分けには1組、2組、3組・・・という表現が長い間取られてきたがようやくA,B、C,と戻って来ている。まさに「歴史は繰り返す」のである。 

揃いのベージュの五つの金ボタンの制服に白一重線の学生帽が素晴らしい。校舎はバラックだったが204名の生徒の立派なこと、この上無いではないか。私はそのように感じた。何と創立80周年誌(50年史ではない)にこの1期生の中からお二人のお方が投稿されている記事を見つけた。創立80周年誌は平成19年に完成しているからこの時の校長は私であった。記事には97歳とあったが、すごい。97歳で「かくしゃく」とされているのだ。そのうちのお一人が次のように記述されている。ママ転記する。「創立80周年おめでとう存じます。第一回卒業ということで80年の年月を重ねたわけですね。(中略)今年で97歳を過ぎて学恩を感謝いたしております。母校のますますのご隆盛を祈りおります」とあった。こういう文章を昔の方は出来るのである。

 


又もう一人のお方は次のように書いておられる。これもママ。「まず入学当初の記憶から現在の高野線我孫子前駅より住吉寄り500メートル線路に近接して2階建ての古工場が浪速中学校が校舎でありました。現在の校舎から考えると月とスッポンの様です。現在のような場所になったのは3年生の頃で我々が池を埋め立てて努力したのを覚えています。今でも傍らに焼場があるのでしょうか。朝登校すると臭いのを覚えています。・・・」。現在の学校の場所が以前は依羅池(よさみ池)という池だったことは知っていたが、ここに「焼場があった」ことを今回本校の歴史を追うことで私は知ることになった。そういえば前述した2期生の卒業生も前述したように「学校の回りは田とお墓ばかり」であったと書いている。

 旧本館には微笑ましいエピソードが残っている。梅田高女の卒業生が本校に立ち寄り、「懐かしの母校は生きていた」と校舎を手でなでていたと言う。そしてこの本館は37年の齢で取り壊された。当時の人々にとってまことにもって思い出深い建物だったのだと思う。記録には「模型」を残したと言うが、何処にも残っていない。あれば私はこれから建設する新校舎のロビーの何処かに陳列したのにと思う。私はこの旧本館に言いようも無く惹かれる。雰囲気の大変良い建物である。平成19年完成させた現在の正門はこの梅田高女の正門のイメージを参考にして設置したものである。