2022年5月16日月曜日

浪速100年アーカイブ⑩ 旧制中学の実態

 本校の歴史浪速100年アーカイブ9において「大正時代と本校の誕生」と題して本校が出来た時代背景について記した。本校は大正ロマン溢れる時代の大正12年に産声をこの住吉区山之内の地に上げた。開校に間に合わなくて沢の町の借り物の仮校舎で204名の入学生で入学式が執り行われた。校長先生も間に合わなくて校長事務取扱として大阪府から行政官の大島鎮治先生が開校準備に当たられた。入学者は「高野線にある南の田舎私立中学」ということを恥ずかしがり、中には校章を隠してまで登校する生徒もいたと記録にあった。周辺は焼場と墓場と我孫子南京と我孫子大根畑ばかりであり、入学生はまだ「依羅池」を埋め立てた土地に大和川から砂を運んでグランドを整備したという写真が残っている。本館は旧梅田高等女学校の古い建物を移設し、殆どの校舎が「戴きもの」で学校は出発した。 



開校して1年が経ち、ようやく「大里猪熊先生」と言う素晴らしい本流の校長を迎えて学校は着々と形を作って行った。1期生、2期生、3期生などが書き残した文章を読んでみると生徒は「個性溢れる素晴らしい先生ばかりであった」とある。本校は間違いなく旧制中学であり旧制中等学校ではない。「本筋の中学校」であった。当時は旧制中学4年終了後は旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。浪速中学校1期生のうちその進路を取ったものは6名いた。6名の進学先は高知高等学校、龍谷大学、中央大学、関西大学、大谷大学、浪速高等学校(大阪大学付属)であったと記録にある。 

大正12年入学した204名の浪速中学校の生徒は元号をまたがり、昭和3年5年間の修了を終えて一回目の卒業式を迎えた。しかしその数は148名であった。従って浪速中学校を卒業したものは204マイナス6マイナス50で148名となる。50名の不足は「中途退学者の数」である。比率は24%と1/4にも上るが実はこの数値は当時としてはまだ低い方だと今回私は知ることになった。明治から大正にかけて「立身出世主義」「成功熱」から中学進学熱は高まるばかりで国策ともあいまって中学校、中等学校は雨後の筍の如く誕生したが、それでも一般には「中学に行くのは高嶺の花」であった。昔の映画などで田舎の勉強の出来る子どもが尋常小学校の先生から「この子は良く出来るから中学に行かせたらどうですか」などと家庭訪問などで母親に言ったりする場面が出てくるが当時中学に進学するなどは稀有なことだったのである。農村からの進学者は「地主の子弟」で村で一人か二人がせいぜいで農村の次男三男は尋常小学校6年卒か高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出ていた時代である。したがって結局は金銭的に中学校を最後まで完遂できる比率は低かったと文部省の記録にはある。


大正の時代において当時の代表的インテリ層である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円だったのに東京市立中学の入学年次の学費は直接経費だけで146円19戦だったと記録にある。したがって折角入学しても中途退学を余儀なくされた割合は入学者の1/3にも達した。この状況を結果的に文部省は放置したと考える他はない。それはそのように考えざるを得ない文章が残っているからである。当時の文部省の考え方は「エリート養成の中学校であり、一定の方針もなくただ漫然と入学した者の退学は父兄にその責任がある。出鱈目な入学に目覚め・・・」と退学者の多きをむしろ歓迎しているのである。

 これは「中学校が一種の淘汰機関」となっていることを示す。私はこの考えに大変な興味が沸いた。中等学校が整備されていったものの中学校を無事に卒業して学歴の階段を更に登っていくことは決して容易なことではなかったのである。私の発想はこうだ。旧制中学が今の新制高等学校と考えるなら「高校進学率が97%程度」と高校全入時代の今、もっと高校卒業認定を厳しくするという考え方はどうであろうか。高等学校を「淘汰機関」と捉えるのである。そうすればもう少しましな大学生が出来るだろう。

従って旧制浪速中学校の第一期生が50名もの中途退学者があったとしても全くそれは不自然なことではないのである。ここに記録があるのだが明治33年(1911)全国の中学生78000人に対して退学者数は11000人、14,2%となっている。これは同年の卒業者7747人の1.4倍であり、中でも熊本県立中学校の明治38年(1905)から明治41年(1908)のデータによれば中学校を5年間で無事に卒業した生徒は入学者の22%から34%に過ぎないとあった。現代の水準からすれば驚くべき数字である。