2023年5月3日水曜日

4月30日 「新浪速中学校新校舎建設宣言」

 4月30日奉祝祭の次は「新校舎建設宣言」とした。当初の案にはなかったがこれもまた私が追加した。次の第二部「式典」で映像による「浪速学院の校舎の変遷」で中身を詳しく流すのであるが、新校舎建設の話が教員の手で突然出てくるのも「おかしいかな?」と考え、追加したものだった。「これでもか、これでもか」という感じがしないでもないが「100周年記念事業」として多くの寄付金を頂いている。その感謝の意味を込めて正式に関係者の揃った場所で宣言すべきと考えたのである。 





寄付金は前日の29日に大口の寄付金の振り込みが確認され、遂に1億円を突破した。90周年時に時に比べ極めて速いペースである。受け付けは竣工まで続くからまだ膨らむことを期待している。着工は5月中旬、完成は令和7年秋口になると思う。ゼネコンは南海辰村建設さんだ。本校では浪速改革の当初、「浪速武道館」を建設頂き、今年の3月には別館「NS館」6教室を短納期で請け負って貰い、見事に完成した。このNS館に連結する地上6階建ての新浪速中学校校舎は初めて浪速中学校が有する初めての単独の校舎となる。100年前の先人は校舎もなく、近くの休眠中の工場を借りて4月30日に開校した。生徒数は204人であった。このような背景から私はわざわざ時間をとって理事長自ら「新校舎建設宣言」をすべきと考えたのである。 


その図面を取り付けた大型看板は29日に広場の一番後方の場所から大きく前に出した。雨天を想像しテント内からではあまりにも遠くて看板が見えずらいと判断したが、結局良い天気になり、皆さんは司会の誘導で看板近くまで動いてくださり、「大型図面」の新校舎建設宣言は大きな反響を呼んだと思う。カーテンが開いた時には「歓声」があちこちに出たからである。この新校舎は「ジェンダーフリートイレ」とか随所に新しきものを織り込んでおり、これは第二部の式典で中学校の新校舎建設チーム長から映像で紹介される。


ところで次ぎから次の進行は「式次第」として立派な和紙に印刷されており、受付で皆さんに手渡されている。次に何が出るのか、しっかりと事前に伝えておくことで余計に効果は高まる。何が出てくるのか「もったいぶった」やり方はこのような式典では似つかわしくない。事細かく豪華な和紙に印刷してお渡しするのが「おもてなし」である。この件は事務室の早川事務長補佐がよくやってくれた。


4月30日奉祝祭②粛々と厳粛に流れるように奉祝祭は進んだ。

それにしても昔この学校で一緒に働いてくれた元幹部管理職が来てくれたのは極めて嬉しいことだった。皆さん、髪は白くなったがお元気そうで安心した。

今回の進行には随所に工夫を凝らしてくれている。すべてのプログラムを皆様に御覧いただくために極めて多くの「モニター」を用意した。テントの中でも神社前や神楽舞なども完全に映像と音楽で見られるようにした。「何処、何処?何、何?」などと席を立たなくても済むようにお客様への配慮である。まず開式前にモニターにて待ち時間を利用して初代校歌、2代目校歌、応援歌が歴代生徒たちの様子を重ねて作成された映像「浪速学院の歴史とこれから」がモニターに映し出された。時間は12分35秒。そして奉祝祭前のプログラムが続く。奉祝祭はまだ始まっていない。まず3尺大太鼓の打ち始めである。 太鼓メーカーは」石川県の浅野太鼓(株)さんで置台の彫刻は井波彫刻の大家、畠山先生、渾身の力作、「上り龍、下り龍」であることが紹介された。最初に3尺大太鼓の除幕があったことは奉祝祭①に記録している。 

いよいよ奉祝祭が始まった。神職の参進、修祓、斎主一拝、献餞、祝詞奏上と進んだ。この手順は日本全国どこの神社のお祭りでも変わることはない。次に本校神楽部の「神楽奉納」があったがここで祭式を進める典儀から「尚学の舞」の説明があったが、これについては「物語」もあり別途触れたいと思う。また引き続いてあった「舞楽奉納」についても極めて珍しいことであり、別途のアラウンドで紹介しておきたいと思う。玉串奉奠はまず祭主の理事長たる私、ついで神社本庁の田中総長、神宮大宮司様のご名代、そして神宮崇敬会理事長の4人であった。祭り主の私は当然トップバッターであるが、その後、本庁の総長か、神宮大宮司のご名代か迷い、数人の識者にお聞きしたが、当初予定していた順番が入れえ変わった。お伊勢さんと言えども全国の神社の一つであり、これらを統括する本庁のトップがまず先であることを確認でき、私の考えと同じですっきりとした。案外とこの玉串奉奠の順番は慎重に考えねばならない。




 


奉祝祭は終わり、次いで「100周年記念碑の除幕」に移った。流れるように番組は続く。今までにも単独のアラウンドで紹介しているが、今から1年前に中学の修学旅行で、この「鉾みたいな」萩焼の焼きものに惹きつけられた私はその場で購入を決め、1年間保管して頂いていた。それをのせる台座が完成したのが4月19日。そして21日に萩焼の陶芸家、金子信彦氏が、自ら届けてくださり、この日台座に据え付けられた。私はこの作品を神社神道の学校に相応しく、「祈願の碑」と命名し神社前の御垣外に設置した。台座にはこの1年、生徒も教職員も胸に着けていた「100周年バッジ」のデザインをこれまた大塚オーミさんにお願いし焼き物にして台座に嵌め込んだのである。この祈願の碑には、相当時間を割いて自ら「祈願」の文字を何十枚も書き、また石屋さんの所に足を運び、台座の設計にこだわった。当初は真っ黒のミカゲ石であったが、どうも「成金的」な感じがして「サンドブラスト」して黒色から灰色に変えた。これにより極めて品格が上がったと満足している。

4月30日奉祝祭①「お天気のこと」

 4月30日の天気は1か月前くらいから少しだけ気にしてテレビやスマホの長期予報は見ていたが、或る頃から「曇りのち雨」「雨のち曇り」とは芳しくないことは分かっていたので別に大きく落ち込むことはなかった。それに1年前から「全天候型会場」すなわち神社前広場はテントを張る手配にしていたから「天気はどう転んでも良い」とは思っていたが来校されるお客様のことを思えば快晴が好ましいのは当然である。しかし人間はお天気には勝てない。28日には天気はカンカン照りの中、テント張は済ませ、29日には万全な形にすべく「ぐるりと回り囲い」までして張り30日の朝を待った。しかし通勤途中でも一時期本降りみたいに降り、この時点で私は天気の回復は諦めたのだが、7時半頃から雨は上がったり小さくなったりだった。M教頭が部屋に来て「諦めますか」と言うので「そのままテントを張っておくように」と指示した。実は隠れた場所で業者さんたちは待機しており指示あれば素早くテントの外しを考えていたのだが、それを諦めお客様はテント下の椅子に据わって頂いたのである。 

7時半頃から会場の最後の巡視を行った。まずお祝いとして立派な花を多くの方々から頂戴していたのだがその陳列に失礼に思える飾り方があったのでそれを修正させた。あとは祝賀会場で社会科のM先生が一生懸命にクロダトーンの練習をしていたので激励した。9時15分過ぎには来客のお顔が見え始めた頃には雨は完全に上がり、時折晴れ間も見え始めた。まさしく90周年時と同じ状況になった。不思議と繰り返すのである。私はテント内の方々にご挨拶をして回った。久し振りに見るお顔もあり、懐かしかった。ほぼ100%、用意したお席は埋まり、私は嬉しくなった。これが「空き、空き」だったら悲しく思っただろうか。奉祝祭に先立ち、PTAから寄贈された「3尺大太鼓」の「打ち始め式」で、まずその前に私とPTA会長で除幕式を行って、「報鼓」と言って神道世界ではお祭りの前に太鼓を打ち鳴らす事がある。 









最初に「撥」を持って叩いたのは空手道部の主将で長身だから3尺大太鼓でも「ばっちり」決まっていた。それにしても大きな太鼓の音は当然だが大きく鳴る。この報鼓で奉祝祭はスタートすることになった。学院神社の側近くまでまず「祭り主」の私とついで神社本庁の田中総長、伊勢神宮大宮司様のご名代である神宮司庁の参事、神宮崇敬会の理事長、それに本校管理職と席に着いた。次いで斎主となる市内坐摩神社の渡邊宮司他神職が参進された。この中には高校のM教頭他が2名加わった祭員構成であった。普通は外部の神職だけだが今回は本校の教員で神職資格を有する神道科の教員が入ったのは嬉しいことであった。




装束については通常の本校での祭事、例えば春季、秋季の例祭では白装束であるが今回は私から特別に正式装束にするようにお願いしておいた。今回は特別なお祭りであるからである。神職の参進時には「雅楽の雅な音曲」が境内をこだまし、これらの奏者はこれまた本校の雅楽部の現、元の部員、そして指導者の総出で25人の大チームでこのような編成も雅楽部の顧問に事前に話しておいたので迫力があった。当然神楽部の奉納も本校の現役生徒であり衣装新たかにて神社前に進んだのである。奉祝祭の始まりである。30日午前10時。








2023年5月2日火曜日

4月30日成功の秘訣はあの「進行マニュアルと台本」

 「用意周到な準備は勝利への道」というが全くその通りである。プロのスポーツ選手が「練習こそ勝利への道筋」と良く言われているが、重要な行事、試合などは準備や予行演習、猛烈な練習こそ成功への秘訣であり、完全で用意周到な準備をしたところに勝利の女神は微笑んで下さる。今回の一連の行事で私はこのことを今更ながら思い知った。そして「拘り(こだわり)こそ差別化の必須の手段」であることも確認した。簡素な式典も悪くはないが、今回私は徹底的にこだわった。豪華さを競うのではなくて中身での勝負とした。徹底した「おもてなし」の精神を具現化するのだ。世紀をまたがる100周年行事の後の110年、120年などはする必要はないし、100年を超えた学校に余り意味はない。100周年こそ重要でありこれを成功させることが先人に報いることであると覚悟し、費用も予算化しており、「お金がないから」は通用しないとまで述べ、知恵を出せと管理職には厳命した。目的は「浪速改革というもの」をご理解頂き、「100年経った浪速学院の今の姿」をご関係深い皆様に見ていただくことであり、それ以外の目的はないとまで言い切った。従って「後世に残る記念式典」にすると管理職や職員会議で述べたのである。 

今から1年前の理事会で1年後の令和5年4月30日、開校以来100周年目となるこの日に行うと報告し確認された。連休の二日目であり、ご案内状をお出しする皆様のご予定は当然頭にはあったが、それでも私は4月30日とした。「この日でなければ意味はない?」とまでこだわったのである。当然欠席者が多く出るかも知れないと想像したがそれでも30日にこだわった。早速実行委員会を立ち上げ、宮木常務理事と飯田理事・高校校長を副実行委員長に指名し、組織は作られた。実行委員長の私が指示した点は以下の通りであったがその後改変したのは④の祝賀会であった。中央間6階のレストランでのノンアルコール食事会とお持ち帰りの2方法に変更した。

①    場所は学校 ② 第一部奉祝祭(神前奉告)、第二部記念式典、第三部祝賀会)③ 徹底した映像と音楽による式典(ご来賓のご祝辞等は冊子にて配布)④ お出しする昼食はお祝い弁当をお持ち帰りいただく方式 

正直、私が途中で次から次ぎと色々と新しいアイデアを出すものだから実行委員会のメンバーは大変だったと思う。この点はこのアラウンドでも謝っておきたい。しかし前述したように私の「性癖」かも知れないが「ギリギリまで拘って完全さを追求する」のが木村流であり、だからこそお相手に心が通じる。これが差別化であり区別化である。今回の一連の行事がほぼ全てのお客様に「感動みたいな特別な感情」をお持ち帰り頂いたのは教職員の用意周到の準備作業と理事長の拘りだったと思う。

そして全てのパートが完全に、見事に進行したのは「素晴らしいマニュアルのおかげ」である。マニュアルは「進行マニュアル、第一部脚本、第二部脚本、第三部脚本の4分冊」に分かれ、これらを見れば全てが分かる。まさに一流映画の一流監督と一流脚本家の手になるようなものだと私は感じた。修正加筆は12稿までになり、徹底して中身を網羅し作成し全教職員が「共有化」した。これが勝利につながったことは間違いない。私はこの4分冊こそ後世に残すべき資料と考え、そのように計らう。このマニュアルの作成責任者は高校教頭の森川先生であった。お家は神社、自身も神職であり、浪速改革以来常に私の近くに立ち、神道科主任教諭、生徒生活指導部長、教頭補佐、教頭と経験を重ね、今回の式典マニュアルを主軸として作成し進行全般に大活躍してくれた。私の今回の森川教頭のあの頑張りの心中にある思いは人知れず、私だけが良く理解している積りだ。「よくやってくれた。有難う!」














2023年5月1日月曜日

4月30日「最後の最後まで完全を追い求める」

 連休であるが記憶の正確さのある段階でアラウンドを書くことにした。「備えあれば憂いなし」「準備万端」などの言葉があるが、1年かけて「用意周到」に準備してきた「開校100周年記念行事」の実践結果についてまとめておきたい。話を元に戻せば、昨日の4月30日、内外のお客様をおよそ350人お招きして「奉祝祭、式典、祝賀会」と3部門に分けたプログラムは「無事に」それも、手前味噌ながら「見事に」、想定以上の効果を出して終える事が出来た。今日は5月1日、本校は「創立記念日」として学校は休業日であり、私も休みである。今日から連休の入りだ。祝賀会が終了したのが30日の午後3時前で、興奮冷めやらぬ私は感動の余り、すべての会場を再度、巡ったがすでに撤収部隊の業者さんは片づけに着手し多くの手が入っていた。

高揚した気分も落ち着き、ようやく「済んだ!」と今だに安堵した気持であるが、正直、ここまで野球でいえば「完全試合」みたいに仕事を成し遂げた「教職員を称えたい」気持ちで一杯である。「本当によくやってくれた」との思いに尽き、その思いが未だに継続している。しかし後世のために記録は残しておかねばならない。時計の針を29日午後に戻してみよう。実は30日当日の前日夕方15時過ぎに海外の要人を千早赤坂村の「多聞茶寮で午前中ご接待中」であったが、気持ちの半分は明日の会場の準備、お天気のことであり、予定の仕事を終えた私はとにかく学校に急いだ。担当のM教頭から私の動線の再確認、そして会場のしつらえの最終チェックである。 

遡ること28日もそして29日も、両日を使って私は祝賀会場となる場所を視察し最終指示を出した。まず、「新浪速中学校の建設宣言場所」を変更した。ずっと気にしていた30日の天気は雨天だとその時点で覚悟した。ご来賓の頭上にはテントがあり、その位置からでは大きな図面を張っている位置が遠すぎると判断し、前に移動させることを決めたのである。そして祝賀会場ではパイプオルガンの音を出すクロダトーンの位置を演台近くに寄せることを決めた。次に祝賀会場の正面部隊の大幅な変更を指示した。一段高くしている台が狭く、不安定であり、それを縦横2倍に拡張したこと、正面向かって左の壇上に国旗を設置するように指示したこと、金色の織屏風の左右に本校の幔幕を張るのを止めたこと、そして大きな生け花を飾ることの4点であった。演台を2倍に拡張したことに伴い、丸テーブル21個は正面付近を少しだけ後面にずらし、弓なり状に設置するように指示した。



最後の最後まで「良い形」を追い求めるのが私に生き方であり、主義である。「もうこの辺で・・・」と妥協はしない。「完全を追い求める」のは自分をも、そして部下をも追い込んでることは十分承知している。しかしまだ本番前に時間があるなら、妥協せず状況を想定しながらより良い方法に変えていくことは「出来上がり」に大きな影響を与える。それでも完全にはいかないが、その結果を部下の責任にしてはならない。最後は自分が了承したのであるからすべての責任は私にある。このようにして30日の会場設営は進められて行ったのである。30日の全てのパートで結果的に多くのお客様から「賞賛のお声」を頂いたのは最後の最後まで完全を追い求めた努力があったからだと私は思う。最後の最後まで頑張ってくれた管理職と教職員の勝利だと思う。高く評価したい。