昨日の太宰府でのライブ配信の評判は上〃で入試広報部長や教頭先生からお褒めにあづかった。教員と生徒の頑張りだから、帰ったら生徒にはパン券をプレゼントすることにした。
太宰府後の有田市の「陶芸の郷」では有田焼の下絵に生徒は一生懸命取り組んでいた。夕刻でもあり、人出の少ない状況であったが本校の生徒の良さはこのような時に現れる。正に神道の教えである「今を生きる」を地でいっている。私は生徒がいとおしくてならない。彼らの絵付けした中皿は本焼きされて届く。大きく大きく成長して欲しいと思う。それにしてもハウステンボスの夜景は美しかったがコロナ禍を経験した我々には何か、遠い昔の光景のような感じがした。
今日の予定は生徒はここハウステンボスにて遊ぶ。途中で近代日本の窓となった平戸に出かけ、この地に二泊目だ。私は生徒より早く軍艦島を選択しこの島に赴いた。陸路では駄目だから渡船である。
「不気味な響き」を放つここ軍艦島は観光スポットであるが、元々の名前は端島と言うらしい。長崎港沖合にある廃墟となった炭鉱施設である。明治維新後近代日本の礎となった施設は今やほぼ廃墟と化し、観光客以外訪れる人も無し。寂れ崩れて行くコンクリートの施設を見るといわゆる「無常」を感じる。
今や行くことも出来ない建物のてっぺん付近に聳える元神社の祠を見るともの悲しい。この島が繁栄していた時代には、御祭り時にはこの神社に多くの人出と屋台などが出て、子供の声でさぞかし賑わっていただろうと思う。私は生徒にはこのような流転と時代の変転を少しでも感じ取って欲しいと思う。決して「強者どもの夢の跡」ではない。どちらかと言うと社会的弱者の夢の跡かも知れない。
軍艦島の始まり 江戸時代後期の文化7年(1810年)頃にこの島でかなり良質の石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行っていたがその後、明治23年に三菱合資会社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的「海底炭坑」として操業が開始された。今まさに放映中のNHK大河の「青天を衝く」の渋沢栄一、岩崎弥太郎の時代である。富国強兵の先駆けとなった軍艦島は多くの感傷を私に与えた。しかしそれにしてもガイドさんの素晴らしさに感動した。明日の生徒のガイダンスも彼であり、私は宜しくお願いしますと申し上げご挨拶した。